操体法大辞典

操体の専門家による、操体の最新情報など

言葉の誘導(動診と操法の区別)

操法を他者に行う場合大切なことは何か。先にも述べたが、

問診(聞き上手というのも、技量のうち)

視診

触診

(見立て総合力:ここでどんな操法から入ろうか、となる)

動診

動診に対する介助、補助、抵抗の与え方(操者のからだの使い方)

その合間に入る、言葉の誘導だと思う。



言葉の誘導は何故、大切なのか。

それは、多くの患者、クライアントは動けない(動き方を知らない)からだ。それを言葉で示すのは重要だと思う。

以下に示すのは、言葉の誘導に慣れていない人のためのヒントだが、

(あくまで標準語ということでお許しを)

ポイントは「からだにききわけて」という言葉と、「ゆっくり」。

「ぎゅー」とか「ドスン」とか「ぐぐ〜っと」という、濁った言葉を使わないこと。(受ける人はそうすると、操者の言葉を受けて、力んでしまうのだ)

具体的に『肩を耳のほうに向かって引き上げて』とか『つま先が脛につくように、足首を曲げていただけますか』とか、わかりやすい

誘導をすること





動診と操法の区別をきちんとつけるということと、

連動(自然な連動と不自然な連動)の理解。



これが大事だと思う。常々私は動診と操法の区別をきちんとつけよ、と言ってきたが、それが曖昧になっている場合が多いからだ。

特に、最初に言葉の誘導を学ぶ場合は(慣れれば臨機応変に使い分けやバリエーションができるのは当然だ)この区別をしっかりしたほうがいいと思う。後々、絶対役に立つ。



再度書いてみるが

受け手にあるポジションをとらせ、介助補助、抵抗などを与えながら、ゆっくりと感覚を聞き分けさせながら、ある動きをとらせる。

(基本的には末端関節が動けば、からだの中心、腰が動き、腰が動けば、全身が動く:連動がわかっていればもっとやりやすい)



その動きの中にきもちのよさがあるのかないのか、拡大解釈してみれば、味わってみたいのか、みたくないのか、それを聞きわけさせる、そこまでが動診である。



なければやめさせる。もしも、その感覚が(からだにききわけて)

「ある」、「味わってみたい」のだったら、そこからが操法になる。操法ということは『きもちよく、きもちよさに委ねて』ということだ。



動診の場合は明確に操者が動きに対して指示をする。そして感覚をききわけさせる。それでからだが「OK,きもちいいよ。味わってみたいよ」というサインを出せば、そこからは操法だ。きもちよさに委ねればいいのだから、どんなへんてこりんな格好になってもかまわないのだ。そして、脱力の方法もきもちよさに委ねることになる。



基本的な言葉の誘導(仰臥膝二分の一屈曲位、足関節の背屈)

ポジションをとらせ、操法を行う足(ここでは左)の甲に右手、左手を膝がぶれないように軽く支える。

操「それでは、左のつま先が脛につくように足首を曲げていただけますか。ゆっくりと感覚をききわけながら、お願いします」

操「痛みや不快感があったらすぐやめて結構です」

操者、受け手の左足甲に介助を与えながらつま先があがり始めたタイミングを狙って

操「はい、つま先を挙げやすいように、からだの中心、腰を使って表現してみましょうか。ゆっくり、ゆっくりと感覚をききわけながら」

操「不快な感じはないですか?」

受「ハイ」

操「では、もう少し表現してみましょうか、左のつま先をあげやすいように、左の腰が右に捻れてきてかまいません。左の背中が伸びて反るように。肩で、首で表現して。これはどうですか?あじわってみたい感覚、きもちのよさはありますか?」

受「ハイ」

操「からだにききわけて。そのきもちよさ、味わってみたいですか?からだにききわけて

受「ハイ」



ここまでが動診である。この後が操法。慣れないうちは「からだにききわけて」、と聞くとよい。これはより質の高い気持ちよさを味わってもらうということもあるが、操者自身もこの先の言葉の誘導を変える必要があるからだ。動診までは『ゆっくりゆっくり』『表現して』『感覚をききわけて』という言葉がキーワードになる。

また、私見ではあるが「きもちいいですか」と聞かれるとアタマで考え、「きもちのよさがありますか」と、問いかけたほうがからだへの問いかけになるのではと思う。また「きもちよさがあると思いますか?」と、問うと、受け手はアタマで考える。



操「それでは、一番きもちいいようにからだの作りを操って、きもちよさを味わってください。きもちよさに委ねて構いませんから、きもちのさの最高で動きをたわめて」

操「きもちのよさが落ち着いてきたら(または十分納得したら)きもちよく全身をぜんぶほどいてください(脱力の仕方はからだの要求にしたがってください)それまで十分にきもちのよさを味わって」

操「全身のちからを全部ほどいて」

(脱力というのは元のポジションにもどることではない。全部抜ききってもらうことだ)

操「脱力後の爽快感がありましたら、それも十分味わってください」

操「落ち着いたら元のポジションに戻ってください」

受け手、膝二分の一屈曲位に戻る

操「ちょっとからだにききわけて下さいね。今のきもちよさ、もう一度あじわってみたいですか(回数の要求はありますか?)からだにききわけて」

受「もう十分です」



操法に入ると、操者の誘導は『委ねて』「一番きもちがいいようにからだのつくりを操って(操体ですね)」「きもちよさを味わって」と、変化してくるのである。また、きもちよさに委ねているのだから、「ゆっくりからだのつくりを操って」というのも、厳密にいえば、ヘンである。



また、脱力の方法も「からだにききわけた結果、きもちよさがあったのだから」「きもちよく全身力をほどいて」「脱力の仕方はからだにききわけて」と、言える。動診の時は「ゆっくり」という言葉は使うが、操法における、脱力の指示の時には「ゆっくり脱力仕手ください」とは言わない。これは明らかに動診と操法を混同している。



自分でも書いてみて、なんてしちめんどくさいコトを誘導しているんだろう、と思ったのだが、最初に動診と操法の区別がきちんとつていれば

操「つま先を脛につけるように、足首を曲げていただけますか」

操「きもちよく動いていいですよ」

受「?」(きもちよく動けと言われてもそれがわからないので動けない)

操「きもちよさはありますか」

受「特にないです」

操「それではゆっくりと脱力してください」



というような、誘導をしてしまうのである。上手い人の場合は、上記のような誘導をしても、微妙に手で動誘をかけていたり、皮膚にそっと触れ、その抵抗感で「きもちいいですぅ」と言わせてしまうのだ。



勿論、慣れない内はやりがいがある(難しいとは言わない)と思う。

私の場合は、師匠の講習の模範指導を逐一メモして、バンドで言えば『完コピ』から始まった。それを中途半端に自分の言葉にしてしまうのではなく、慣れないうちは師匠の模範を真似する。そうしているうちに、動診と操法の区別、ということがわかってきた。これに気づいた時、師匠に尋ねてみたが、その通り、という答えが返ってきた。



動診と操法の区別、というのが私の研究テーマになるかもしれない。