操体法大辞典

操体の専門家による、操体の最新情報など

操体の広まり方(カルチャーセンターを考える)

このブログでも何度か書いているが、操体はとても不思議な広まり方をしている。

医師が診療所(温古堂)で患者相手にやっていたものなので、専門家が臨床の一環として行っていたことがその始まりだ。

もう一つは、カルチャーセンターやフィットネスクラブでプログラムの一環として、一般の方の健康維持増進のために指導しているケース。

保健師が医療過疎地域で、地域住民のために公民館など、あるいは訪問して操体の「やりかた」を、息食動想の考えと共に指導しているケース。

「○○操体の会」というように、各地でサークル活動的に行っているケース。

個人が自力自動で、自宅で、職場などで、自身の健康維持増進のために行っているケース。



例えば臨床家は「操体は臨床である」と思っているし、カルチャーセンターやサークルは「健康運動」として認識しているのだが、そのどちらも、いや上記のどれもが一括りに『操体法』あるいは『操体』となっているのだ。



例えば健康体操と捉えている人に、『操体を学ぶのにこれだけの時間と費用がかかります』と、臨床家向けの学び方を示したら、多分『健康体操にそんな法外な時間と金額なんて、バカな』と言われるだろう。

しかし、鍼灸師や柔道整復師、手技療法家など、臨床を生業としている人々からみれば、『それだけの技量が身につくのだったら、それは当たり前だし、自分にとって非常に有効な勉強であり、投資である』と、思うに違いない。



以前もブログに書いたが、ある大学の先生が全国操体バランス運動研究会の基調講演で『操体ではお金をとるべきではない』と、発言した。

この時、会場には約100名の参加者がいたが、そのうち約半数以上が臨床家だった。

この先生は、大学の先生なので、別に臨床をしなくてもよいのだが、その場に居合わせた臨床家の先輩達は多少なりとも憤慨していた。



これも、臨床家と健康体操として認識している人の間の温度差なのだろう。



以前、開業したばかりの三浦先生のところに、橋本敬三先生が出された手紙を見せていただいたことがある。詳しい内容はここでは書かないが、

橋本先生は決して『お金をとるな』とは書かれていなかった。



★★

先日野口整体の創始者、野口晴哉氏の奥方(野口昭子氏)が書いた『朴歯の下駄』(ちくま文庫)がある。

その中に『施療』という言葉が出てくる。野口氏は貧しい人などからでも、ほんの少しでも治療費を頂いていたようだが、その考えに、

『貧しい人ほど、『施(ほどこし)を受ける』ということに対して敏感になっている。なので自分は少しでもその気持ちをありがたいと思っていただく』というような事が書かれている(もし、勘違いだったらご指摘下さい)。というか、無料で施すというのは『やってやっている』という尊大な態度が行う側に生まれてしまうし、受ける側も『施しを受けている』と、大袈裟に言えば卑屈になってしまうことを避けたかったのかと思う。

『施療』という言葉にそのような意味を見いだしていたのである。

『施術』と『施療』という、一見似た言葉には大きな違いがあったのだ。

(というか、辞書を引くと「施療:貧しい人などのために、無料で病気の治療をすること。」(infoseekマルチ辞書 三省堂)と書いてある)

この話を聞いてある受講生が『治療とは、金をとることなり』と書いたノートを落としていって、それを見た昭子夫人が『世の中にはこういったとらえ方しか出来ない人がいるのだ』のようにがっかりした、と書かれている。





操体の全国大会は温度差のある人々が『操体』というキーワードで集まる、不思議な世界なのだ。皆操体が好きだということに変わりはないのだが。



考えてもみてほしい。

例えば指圧の学会があったとする。そこに集まるのはどう考えても指圧のプロである指圧師が集まるのは当然だ。そこに『私は家庭指圧を趣味でやってます、趣味でやってるから、指圧してお金もらっちゃいけません』いうことはありえまい。



また、橋本敬三医師が『自分は組織の長にはならないよ』という言葉が、何故か『操体は組織を作ってはいけない』というように解釈され、

例えば野口体操とか、野口整体のように長を置く組織を作らなかった故、小さい組織が各地にできた。

操体には「全国操体バランス運動研究会」というものがあるが、会員は存在しない。年に一度やる、という告知があると、日本全国から人が集まってくるという、不思議な会なのだ。



さらには『操体は誰のものでもない、みんなのものだ』という理念が何故か『いろんな先生が、いろんな人がいるから、その人なりのやり方が

あっていい』というように拡大解釈され、それが様々に広がっているのである。



また、ある方とお話をした際も『操体でお金をとっちゃいけません』というので、『私はそれでご飯を食べてますから、それでは困ります』と言ったら、『私は素人だから』という返事が返ってきた。

これも温度差である。



数年前の全国大会で、エスカレータに乗っている時、前に乗っていた年配のご婦人二人が『操体でお金とっちゃいけないのよね』と言っていた。



これを聞いて、『そうしたら、臨床家であり、医師であった橋本敬三先生はどうするのだ?』と思い、『操体でお金もらっちゃいけないということは、橋本敬三先生の臨床を否定することではないか?』とも考えた。



保健師さんだって、地方自治体から給料を貰って仕事をしているわけだから、無給ではない。また、ボランティアでやるのだったら、外国のようにお金を持っていて人様に施す余裕がある人がやればいいのだ。



これも温度差である。



その昔、ある勉強会で『操体専門で開業しています』と言ったら、驚かれたことがあった。何故かと言うと、そこは健康体操として家庭でのケアとして操体を捉えていた人達の集まりだったのだから、それは仕方ない。



しかし、冷静に考えてみると、健康体操を適当に、害がない程度に教えるのだったらお金を頂く必要はないかもしれない。というか、そのような事は考えつかないかもしれない。



つまり、そのような温度差の違う人々がそれぞれ自分の考えで操体に関わっているのである。



とにかく、臨床として捉えている場合と、健康体操として捉えている場合、同じ操体と言えど、その間には平行線が走っているのだ。



専門家には深く、健康体操派には広く、という感じか。



橋本敬三先生も、患者さんには『簡単だ』と言われ、弟子には『大変なものに足をつっこんだな。でも、一生楽しめるぞ』(ちょっと省略)と言われたらしい。

つまり、創始者からして、臨床家と一般の患者は区別していたのである。



それでは平行するわけだ。



しかし、これはどうにかすべき課題なのだ。



長々と書いてみたが、話を元に戻そう。



朝日カルチャーセンターはその名前の通り、カルチャーセンターである。師匠がクラスを持っている。

行っている講座の形式は、講師がいて、受講生がその回りを囲んで、基本的に講師が『言葉の誘導で』操体の指導を行う。

講師一人だと人数が何人もいる場合、手をかける、触れられる状態ではないからだ。(カルチャースクールやフィットネスクラブで、手をかけずに行う『指導』は一番難易度が高い)



また、講座の対象と目的は、一般の方の健康維持増進である。



私の知り合いは「操体法」の講座に参加している。

その時、新規の参加者に『二人で組んでやらないんですか?』と聞かれたそうだ。



考えうるに、これを聞いた方は二人組になって、お互いにやりあうのを想像していたようだ。



申し訳ないが、全く操体をやったことがない一般の方相手にいきなり二人組になって、操法をやりあう、というのはありえない。

それが『健康体操的』でもいきなりというのは相当無謀である。



あるとしたら、その場合、いきなり二人でやって、怪我などをするリスクのほうが高いと思う。

操体は決して身体をこわしたりはしないが、力んだり、はずみをつけたり、感覚を無視して力任せにしたりすると、あ、これはすでに操体ではないが)



更にこの方は『(操体の)臨床講座を習いたいと思っているが、まず、体験としてカルチャーセンターの講座を受けてみた』と、いわれたという。



まず、講師の顔を一度見たい、あるいは臨床講座を受ける前に、会って話をしたいというならわかるが、



『カルチャーセンターでの講座』と

『臨床家向けの講座』



というのは対象者と目的が全く違うのだ。