息食動想というのは、文字通り「呼吸」「飲食」「身体運動」「精神活動」をあらわす。
例えば呼吸の専門家(呼吸法とか)、食の専門家(食養)、体の使い方の専門家(武術家、身体芸術家、パフォーマー)、
心の専門家(カウンセラーとか、宗教家など)がいる。それぞれ専門分野を深められているのだと思うが、
操体というのはそれを全部網羅している。
息食動想、の中でも一番奥深いのが「想」だと思う。一番自分でコントロールしたい部分なのだが、自分ではなかなかコントロールできない部分でもある。それを統制できるのがオトナではなかろうかとも思う。
※それが「言葉の統制」であり、言葉を統制できる者が賢者だという。
「おおらか」という言葉がある。
いつも思うのだが、おおらかな気持ちや心を持てないから皆困っているのではないか。
元気で健康で満たされている人に「おおらかな心を持てよ」と言えばそれはそれで素晴らしいことだと思う。
しかし、心や体を病んでいる人に対して「おおらかな心を持て」というのは酷なのではないか。(持てないから、体や心を病んだりしている場合もあるのだから)
1)(人柄が)ゆったりしていて、こせこせしないさま。《大》
「―な性格」
(2)多いさま。たくさん。
「飯(いい)・酒・くだものどもなど―にして食べ/宇治拾遺 6」
〔(2)が原義〕以上infoseek辞書より
勿論「おおらか」というのはいい意味だと思うのだが、「おおらかな心を持ちましょう」とか言う人に限って(?)
おおらかではない場合を結構見てきた(人生勉強だ)。
それは何故か考えてみた。
そこで思ったのは「物質的に豊かである、沢山ある」というバックグラウンドがあるから「おおらか」という意味が
成り立つのではないかと。人におおらかに接することができるのは、それなりの背景が必要なのではないか。
自分は足りないとか本当は欲しいのに欲がないフリをして、言葉尻だけで「おおらか」というからおおらかじゃなくなる
のではないか。つまり、何かに渇望している人が「おおらか」と言うと、不自然な感じがするのだ。
欲しいなら欲しいと言えばいいのに、それを覆い隠すから不自然に見えるのだろうか。
*****
操体でいう「想」というのは「心を平安に保つ」、あるいは「自己コントロールできる」ことなのではないかと思ってみたりもする。
難しいけど。