操体法大辞典

操体の専門家による、操体の最新情報など

講習記録・足趾の操法(続き)

一年間にわたる「操体指導者養成コース」もあと残すところ僅かとなった。



前回は「足趾の操法」にとりかかり、今回はその続き。



私が思うに、足趾の操法というのは強力(パワフル)なきもちよさへの導入法である。



足の指の谷間や、足の指の足底側の柔らかいところは他の皮膚とは違うのではないかと思うことがしばしばある。まず、足は足底、足背(そくはい。足の甲)問わず、非常に敏感なところである。

普段は靴や靴下の下で、なかなか目を向けられないところだ。

そして、きもちよさの宝庫でもある。



もう一つ不思議なのは、足の裏をどんなに強く押しても痣になったりしない。強くて敏感で普段あまり目を向けられないところ。

そういうところなのだ。



皮膚へのアプローチというものがある。

これは大きく二つに分けられると考えている。

一つは皮膚の刺激になるもの(stimulate)、

一つは皮膚の刺激にならないもの(touch)



私が習った指針は、皮膚に指頭(または指尖)の2点を乗せるのみ、もしくは皮膚の「あそび」の内で動きをつけるというものである。

これは「touch」であろうと考えている。



刺激になると言えば、つまむとか押すとか引っ張るとか、皮膚の「あそび」を越えたものだと認識している。

これは「stimulate」であろう。



2つとも皮膚にアプローチしているわけだが、この2つは全く違う方向性を持つ。



実際試してみるとわかるのだが、皮膚への刺激はその箇所が気持ちいいのである。

指圧とかマッサージが気持ちいいのはこれに該当すると言えよう。

しかし、手なり指が離れると、大抵のきもちよさは消失することが多い。



そっと触れる場合(私は殆ど指頭5ミリ四方、指二本分を用いる。手掌を使う場合もあるが、頻度としては指頭のほうが断然多い)どうなるかというと、「快だか不快だかよくわからない」という感覚を覚えることが多い(これを「予備感覚」という)。また、それは触れているところにつくこともあるが、

触れているところとは別のところにつくことがある。。

例えば手首に触れている(指頭をそっと置いている)のに、何故か腰がじんじんするとか、足首がぴくぴくするとか、そういう感じである。不快でなければそのまま、その感覚(予備感覚という)を

ききわけていると、それがえもいわれぬきもちよさに変化することがある。

人によっては、身体が無意識の動きをつけてきたり、悲しくないのに涙が出たり、あるいは逆に笑ってしまったりする。色やイメージが見える人もいる。意識が一瞬飛んだり、短時間の眠りに入ったりすることもよくある。

そして、不思議なのは操者がそっと指を離しても、その感覚(きもちよさ)は続くということだろうか。



一番違うのは、押されてきもちがいいとか、ストレッチしてきもちいいのとは全く次元が異なるということだ。



皮膚の刺激になるもの(stimulate)、は、意識に関与する。つまり、快不快が瞬時にわかる

皮膚の刺激にならないもの(touch)、は、無意識に関与する。



皮膚へのアプローチのしかたを二つあげてみたが、



この、足趾の操法はどちらかと言えば刺激に近いかもしれない。

足趾の操法の基本は3つある。揺らす、落とす、揉む、である。この中でどれが一番きもちいいかと言えば、間違いなく「揉む」である。

操体を学んでいて、家族のからだを借りて練習する時など「動くの?」と、余り乗り気でない時も、足趾の操法なら「きもちいいからやって」ということがある。



足趾の操法に限っては、その足趾の性質にもよるのかもしれないが、操作している足趾だけではなく、全身にきもちよさが波及する。これで寝てしまう人も少なくない(自分もたまに受ける

ことがあるが、意識が一瞬飛ぶことがある)。



いずれにせよ、きもちいい。

また、足趾にしか触れていないのに、全身のバランスがとれるのも

事実。足は土台で根っこなのだ。