操体法大辞典

操体の専門家による、操体の最新情報など

やじうま考。何故「○○操体」と言わないのか。

偉大なるやじうまと言えば橋本敬三先生だ。



色々調べてみると「操体」というものは様々な事柄や事象を体系化したものであるということがわかる。つまり、橋本敬三という人は、色々な情報を収集して、それを時間をかけて体系づけて修正していったのだ。



橋本先生が昭和の初期(正体術に出会った頃)に書き記している事と、昭和50年代に書き記している事が同じであるわけはない。進化していれば尚更の事であるが、操体をはじめ、あらゆる学問は修正されながら進化していると言えばいいのだろう。例えば、金子卯時雨博士(サンクロンの特許を所有。日本創健会)との交流、千島学説、相似象 、マクロビオティック桜沢如一氏、などなど、その周囲を調べてみるとなかなか興味深いものがある。

また、人間の食性と歯の数(犬歯4本、門歯8本、臼歯16本ということで、肉向けの歯、犬歯と野菜向けの歯、門歯8本、果物、豆類、雑穀向けの歯が16本ということから、人間の食性を導き出したもの)に関する概念は、「生長の家」の教えを参考にしているらしい。何でも温古堂のトイレには、生長の家の日めくりカレンダーがあったと聞く。



この他にも、日本神話、神代文字、聖書など、様々なものが見えてくるのである。その他にも様々な交流があったことが分かっている。



また、橋本先生が「やじうまのすすめ」ということで、様々な民間療法を試し体系づけていったのはご存じの通りである。その「やじうま根性」の中から『正体術』が橋本先生のアンテナに引っかかり、長い時間をかけて洗練・体系化されていったのだが、最初は様々な断片を集めたものだったのではないかと思う。つまり、突然『息食動想+環境』という概念が生まれるわけはないし、その下地が絶対あったと言っていいだろう。



私が思う「やじうま」というのは、スティーブ・ジョブズApple)が引用する言葉で、ピカソの、 「平凡なアーティストは模倣する、偉大なアーティストは奪う」言葉だ。まさに橋本敬三先生は模倣したのではなく奪ったのだ(奪うという言い方が気に入らないなら、「いただいた」と言えばいい)。

また、橋本先生が言われるところの『ずるいヤジウマ』というのは、まさにこういうことではないだろうか。節操なき尻軽的ヤジウマなのではなく『ありがたくいただく』ヤジウマだ。



「やじうま」という言葉を軸にして考えると、『橋本先生が「やじうま根性で何でもやってみろ」と言われているから何でもやってみて、いいものは取り入れよう』と、いう手法?でやって居られる方もいる。つまり、操体を何か別の療法ややり方と組み合わせるという手法だ。『何でもやってみろ』というのだから、これはこれで一つの手段であろう。



しかし、である。



某団体は操体法の他に温熱療法や飲尿を併用している。この団体の代表を存じあげているが、操体の大会などでの口癖は『私は操体専門じゃないから』である。専門ではないのだが、操体の世界には相当入り込んでおられる。



『専門ではない』と必ず言われるのだったら、操体の専門家の話をもっと聞いたらどうかとも思うのだが、専門家の話をお聞きにならないし、専門家に対して『そんな(細かいこと)どうでもいいじゃない、仲良くやればいいんじゃない』と、その辺は適当である。



しかし、操体の大会などでも『操体実践者』の代表の如くお話をされるし、操体の専門家よりずっと声高である(まあ、操体の全国大会自体、操体の専門家の肩身が狭いという不思議なところなので致し方ないのだが)。



それはそれで構わないが、『操体ってオシッコ飲むんでしょ』と言われることがあった。ぎょっとした。

以前鍼灸師の同門が、同じ鍼灸師に言われてえらくショックだったそうだが、私も言われてしまったのである(汗)



ぎょっとするよりショッキングである。



つまり、『操体=飲尿』と認識している人がいるとすれば、操体専門を名乗っている私なども、『飲尿疑惑』をかけられていることになる(がが〜ん)。



世の中にはこのような驚くべき情報を鵜呑みにして信じている方もいる。もしアナタが「操体をやってる」と誰かに言った時、相手が『ああ、あの・・・』と言葉を濁したり顔が一瞬暗くなったりしたら、そして貴方が飲尿実践者でなければ、その疑惑は打ち消さねばならないのである。



橋本敬三先生は『きもちいいこと』はなさいと言われているが『飲尿せよ』とは言われていない(飲尿がここちいいとかきもちいいとか幸福感を感じるのだったらいいのだろうが、大抵は『カラダのため』とか『イノチのため』だろう)。



世の中には実際飲尿で良くなった方もいるのだが、それは尿に効果があるというよりは、尿を飲んでまで健康になりたい、あるいは良くなりたい、といういわゆる『アンコロ餅を食べて病気が治った』(橋本先生の本にも書いてある)などと同じようなからだのシステムではないだろうか。

これは非常に複雑な話で、免疫とかその辺も関係しているのだと思う。まあ、昔から薬にはされてきたものらしいので、何かはあるのだろうが、この辺りは完全に個人の嗜好である。



ちなみに私のクライアントで、某所で飲尿を勧められ『飲まないと治らない』と言われ『人間としての尊厳を侮辱された』と、泣きそうになりながら話してくれた方がいた。

彼女は命に関わるような重い病ではなく、原因不明の皮膚のトラブルでその門を叩いたのだそうである。

重篤な病で、飲めば治ると覚悟を決めて同意する人だったらいいかもしれないが、人間としての尊厳を傷つけられらたとショックを受ける人に無理強いするのは酷ではないか。



本人の主観も大切だ。いやいや無理矢理というのは拷問だし、それでは良くなるモノも良くならないだろう。



話が長くなったが、操体をやっている人が皆飲尿をしているのではない(はい、これだけは言っておきます)いやな人には勧めるな、ということだ。



この辺りは宗教や健康食品と同じで、相手に勧めて相手が拒否したりすると『アナタのためを思って勧めているのに』とか『こんなに素晴らしいものを勧めているのに』と、『相手の為』が『怒り』や『こんな素晴らしいものをやらないなんてバカじゃない』という蔑みに変わったりする。



さて、話を「やじうま」に戻すが、操体と色々なもの(療法や方法)を組み合わせてやるのも「やじうま」の1つととるケースもあろうが、それは「操体」を狭義に捉えすぎているのではと思う。操体には元々『天然自然の法則』が包括されており、「息食動想」が含まれているのである。それだったら私は最初から「含まれているもの」として考える。



私達が『○○操体』とか『○○操体法』と言わないのはこういう理由による。操体操体なんだから操体でいいじゃん、というわけだ。



また操体の中でやじうますればいい』というのは師匠の言葉で、なるほど、と頷くことができる。



しかし、操体の中でやじうますると言っても、何でもかんでも操体だ!と言うのは早急だと思う。『きもちよければ何でも操体だ!』というのも早急だし、治ればなんでも操体だ!というわけではなかろう。



敢えて言えば『快適感覚を ききわけ 味わう』という言葉にそって、質の良い、生命感覚に響くようなきもちよさをクライアントのからだにききわけて(診断)いただき、味わう(治療)という行程は守りたい。この「生命感覚に響く」「上質の」というのが、私が求めるところかもしれない。



また、もう一つの考えは、料理に例えてみることだ。例えば家庭料理であれば、うどんを作っていたけれど、めんつゆがなかったので、棚にあったミートソースをかけてみたら美味しかったとか(昔給食で「ソフト麺」ってありましたねそういえば)、混ぜてみたら美味しかったとか、そのバリエーションは沢山あるし、どんどん広がっていく。これはこれで、家庭内のレシピや個人のレシピとして定着するだろう。しかし、我々(操体法東京研究会)がやるべきことは、料理であれば和食を研究してその中で洗練させてゆくとか、フランス風の素材を使って和食のメニューを考えるとか、『その土俵の中でやじうまする』ことだと思っている。日本料理の中に、洋風の素材を使ってみたりして、日本料理というものを一層洗練させていくという作業である。