操体法大辞典

操体の専門家による、操体の最新情報など

操体法定期講習 春の新講座に寄せて

5月になり、操体法東京研究会定例講習の新しいタームが始まった。一方の講習は、昨年に(中には三年目の方もおられる)引き続き操体を一層深く勉強しようとしている方々のクラス、もう一方は全くの新規メンバーである。



前者を便宜的に「臨床コース」と呼び、後者を「特講」と呼ぶ(何故か昔から『特講』というのでそれに準ずる)。「臨床」のほうは現役の鍼灸の先生、柔整の先生がおられる。また操体専門で開業を目指している方もおられる。熱心に学んでいる方々である。



その中の一人、鍼灸師のZ君の話だ。Y君は最初私の「施術+ベーシック」を受講した。Z君は病院でリハビリのマッサージをしている。操体に興味を持った理由を聞いてみたところ、『救いと報い』という橋本先生の言葉に惹かれるものがあったという。操体を学びたいというきっかけに、「橋本哲学」への興味を挙げる方も少なくないのである。

ベーシック講習が終わる頃に師匠が講習会場に顔を出し、Z君と二言三言交わしてからある言葉をZ君に伝えた。その内容は書かないでおくが、私は横で聞いていて、『ああ、これは彼の心に響いたな』と思った。その後、師匠がほんの数分、彼に皮膚と動きに関するアプローチを手ほどきしたのだが、それが終わった後、Z君は操体を本格的に勉強することを決意したそうである。帰り際にも『講習は受けます』と言って帰った。それが確か1月頃だったが、その年の春に始まった講習にZ君は参加しており、その次年の講習にも参加した。現在も定例講習に参加しながら個人レッスンにも時間を割いている。

ちなみにZ君は大阪から来ているのだが、殆ど毎週週末は東京で勉強している。周囲の同志に聞いてみても、操体の勉強が面白くて仕方がないという。その他にも毎週土曜の午後、約9ヶ月というハードな講習を終えてからも、仕事のスケジュールの関係で土日の講習には参加できないため、個人レッスンという形で週二回通っている受講生もいる。とにかく『操体漬け』になっていることが本当に面白いのだそうだ。



何故面白いのかと考えてみると『ああ、これは安心して勉強していいんだ』とか『ホンモノだ』と信じる事ができるからではないか。人の世や社会通念(常識)が変わっても不変の自然法則を学んでいるからかもしれない。



勿論私も面白くて仕方ないので、長いこと勉強しているわけなのだが、操体法東京研究会の定例講習のサブ講師を務めていて気がついたことがある。

最初に講習を受けた時は皆「?」なのである。

治し方を習いに来たのに『症状疾患にとらわれない』と言われるし、一番知りたいところの『どうやって動診を選択するのですか』という質問には、追って勉強していけばわかる、とかわされてしまう。『動かして診る』のは、整形外科的テストとか、経筋テストとかあるのに『操体独自の方法だ』という。つまりはよく分からないのである。今まで覚えた知識を一度どこかに置いておかないと混乱するのだ。



師匠はいつも定例講習が始まるとき『白紙の状態で学んで下さい』と受講生に伝える。何故かというとそれまでの常識や知識が邪魔をするのだ。その知識と操体のセオリーを比較対照すると混乱するのである。



つまり『○○ではこうだけど、操体ではどうなのか?』と比較対照(相対的評価)するのではなく、『○○はこうだ。そして操体はこうだ』と、それぞれを絶対的評価の目で見ればいいのだ。思うに、操体とは「絶対的評価」の目を育てる効用もあると思う。



更に言えば一般的に一番売れている農文協の『万病を治せる妙療法』とか(注1)『操体法の実際が基本テキストとして頭にある。それを基準にして考えると、特に『操体法の実際』などは、操体にあるべきではない(注2)『この症状にはこの操体』という一覧表などが記載されている。なので、『症状疾患別にとらわれない??じゃあ、どの操体法を選べばいいのか?』などなどである。

注1)』この本、橋本先生は監修をされているだけで、著者ではない。その点は留意すべきである。『ひとりで操体法』も同様。『監修』というのはいわゆる『ハク付け』の意味合いの方が多いと思う。

注2)「症状疾患別」といっても一覧表をよく見ると多くの操法が重複している。なので実はやはり症状疾患には捕らわれていないのである。しかし、私が最初の本を書いた時、 ふわ、くにゃ、すとん!操体法―痛い・つらいを自力で解消 やはり商業出版なので、どうしても「膝の痛み」とか「腰痛」向けに載せてくれと頼まれ、やむなく了承していくつかの操法をチョイスしたが、結局膝向けも腰向けも肩向けも同じ操法が載っている。そんなものである。



この「?」だが、私も17、8年前に経験したことなので良く分かるのだ。12歳の頃からのヨガに始まり色々学び操体に巡り会ったわけだが(その時には『これが自分の学ぶべき事だ』と直感した)、最初に学んだ操体は『経筋』の色濃いものだった。私が最初に操体を習ったのはK.K先生という方で、師匠の受講生で現在『経筋療法』を看板に掲げているT先生の受講生だった。つまり私が最初に操体を習ったのは師匠の孫弟子だったのである。その経緯は別として、最初に習ったのは『R動操体』のN本先生とT先生(この二人は師匠の講習で同期だったそうだ)の手法をミックスしたようなもので、今考えても経筋的、あるいは均整法的な色が濃い。



やり方といえば、ある筋肉もしくは経穴の圧痛硬結を関節の操作と被験者の瞬間急速脱力で解除するのである。例えばある経穴を押さえ、関節を二方向に動かすような事がメインである。

そしてテキストには『快方に動かして瞬間急速脱力する』と書いてあるのだが、実は『快方向』ではなく、圧痛硬結が消失する方を選んでいるにすぎず、つまりは『楽か辛いか』を選んでいたのである。これは確かに即効性があり、瞬時に痛みが抜ける。当時の講習にはこれを習いたいという受講生が多く来た。というか短い時間で数をこなすような臨床にはうってつけだったのである。

またお陰様で臨床的な結果もあげることが出来ていた。



しかし 操体法治療室―からだの感覚にゆだねる を読んで操体を志した私にとってこの手法は『快適感覚を選択しているのか?』という疑問を生んだ。この疑問から私は師匠(三浦先生)の門を叩いたわけである。元々本著の後半を読んで操体を志したので至極自然なことであった。



というか『圧痛硬結がとれたからって一体?』という(勿論とれたほうがいいのだが)ポンポン脱力させるのが、果たして快適感覚に繋がるのか?という無常感?にかられたのである。



この時私は当時のパートナー(副院長)と療術院をやっていたのだが、院長である私がそれまでの『圧痛硬結瞬間除去的』なものから『快適感覚をききわけ、味わう』という方向にシフトした時、副院長からは『三浦先生にかぶれている』等の反対を受けた。師匠の講習を受けたいと言ったところ『何で一派を張ってるのに院長がわざわざ三浦先生の講習を受ける必要があるのか?』とも言われた。受講生の数人からは『(院長の)前のやり方のほうがよかった』とか非難の声を受けたのである。



そして私はパートナーとの縁を解消したのである。今となっては『ワタシを解放してくれてありがとう』という感じでもある。

また、そのまま彼に従って『ものわかりのいいお飾り院長兼ツマ』を演じていたら今頃どうなっていただろう。考えるとちょっと怖い(笑)。



しかしその時に私を支えてくれた受講生達はその後、私同様皆師匠の元で操体を学び、操体臨床家として、東京操体フォーラム実行委員、役員として活躍中である(感謝)。



『快適感覚をききわけ、味わう』という快適感覚に委ねた操体法を知ってしまうと、「ポンポン脱力」には戻れなくなってしまう。私は戻れなかった(笑)



なお、言葉だけで「快適感覚」というのは簡単である。が、それをどうやって見極めるかと言うと、

『どちらがきもちいいですか』という問いかけをする、あるいは『きもちよさを探して色々動いて』という指導をしている場合は、眉唾ものだと思っていい。なぜならこの二つは

・楽と快の区別がついていない

・動診を操法の区別がついていない

という理解不足のために派生する事項だからである。




しかし、この方達を見下したりしてはいけない。

彼らは単に情報不足で真実を知らないだけのである。

あるいは操体臨床の真実を勉強されると、自分達が教えている『操体』の中身が露見する」指導者達に『あそこには近寄ってはいけない』『あそこのは難しい』『あそこは云々・・・』と言われ、近づかないようにコントロールされているかである。



★様々な操体の団体があるが、私自身は交流を望んでいる。しかし他の団体の方はなかなかコンタクトなり交流を望んでこない。

なお当ブログはよく拝見されているようで、HPのネタなどにもされていると教えて下さった方もいた。黙ってネタにするのだったらどうぞご一報下さい。交流しましょう★



この違い(楽と快の違い、動診と操法の違い)を学ぶのが操体法東京研究会の定例講習のメインの一つだと言ってもいい。

と言っても最初から操体の全貌がわかるわけがない。

特に頭で理解しただけでは絶対わからない。

体験してからだに通すと理解できる。



これらの違いが分かれば連動のしくみや、動診と操法の過程が一気に頭に入ってくる、あるいは『ある日突然いきなり解る』という体験をするハズなのだ。そのために『白紙の状態で学ぶ』ことはとても大切なのである。



『白紙の状態で学びなさい』というのは決して今まで学んできたものを永久に捨てろとか封印しなさいと言っているのではない。操体を学ぶ時は操体を学べばいいのだ。つまり他の事と比較対照しながら勉強しなければいいのだ。



師匠の場合はそれまでの「楽か辛いか」という二者択一比較対照の分析を捨てた。私は圧痛点消去法的なやり方を捨てた。しかし捨てたからと言っても全く無駄にならなかった。それよりも、捨てた?やり方に新しい生命が吹き込まれ、二倍三倍となって返ってきた。

なので、操体を学ぶ時は安心して、操体一筋に学べばいいのだと思っている。

先輩諸氏の声