操体法大辞典

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「きもちよさ」という操体の編集

めずらしくテレビを見ていたら、人間のアタマの編集機能についてやっていた。もしかしたら「きもちよく動いて」とか「きもちよさをさがして」と、思い込んでしまっている方々もそうなのか、と興味深く見ていた。



長島さんの引退試合での有名な言葉で『わが巨人軍は○○に不滅です』という言葉を埋めるのだが、面白い事に『永遠』と覚えている人と『永久』と覚えている人がいた。

本当は『永久に不滅です』と言っているのだが、何故『永遠に不滅です』になったのか。これは、最初報知新聞の記者が間違えたらしい。また、ある新聞のコラムでは最初に「永遠」と書いてから後日「永久」と修正している。これはどうもマスコミのせいと、視聴者が自分のアタマの中で自分に都合がいいように編集する機能があるかららしい。

単なる聞き違いでもないのだ。

また、有森也実選手の「自分を○○○○」については、殆どの人が「自分をほめてあげたい」と言う回答をしていた。「自分をほめてあげたい」と、自分で言うのは日本語的におかしいのだが、実際本人にきいてみると「自分をほめてあげたい」ではなく「自分をほめたい」と言っていたのだ。

先の長島さんの件、有森選手の件、双方ともビデオで正しいことが証明された。



それではなぜ文法的におかしい「ほめてあげたい」がまかり通っているのかというと、これも多分視聴者が有森選手を「ほめてあげたい」と思ったことを、頭の中で編集したか、「ほめたい」では語呂が悪いとか、「ほめたい」ではなんだか色気も素っ気もないとか、様々な意見があがっていたが、なかなか興味深い事例だった。



今一度考えてみると、どこかに愁訴をかかえていて、辛いとか痛い人に「きもちよく動いて」と言うのはおかしいとか、楽な動きが果たして快なのか、というのは筋を追って説明すれば、大抵の方はわかってくれる。



楽=きもちよさではないし、楽でスムースな動きが「快」には直結しないのだ。



第1分析をやっていながら、言葉だけ「きもちいい」ということをやっている人達は、おそらく「最近では『楽』はトレンドじゃないから、『快』という言葉に置き換えて使えばいい」という脳内編集をして、「どちらがきもちいいですか」とか「きもちよさを探して動いて」という指導をしているのかもしれない。



「きもちよさを探して動いて」というのが『操体的』には如何にナンセンスかは、自分でやってみればわかる。きもちいいとしたら、ストレッチ的に伸びているとか、今まで自分が体験した動きを表現するだけなのだ。



★ヨガとかストレッチとか、操体以外のものは知らない。私は『操体』について書いているのである。



おそらくこれは「きもちよさを探して動いて」という指導をすれば、クライアント、あるいは患者はきもちよさを感じてくれるだろうという、思い込み的編集が働いているのではないか。