操体法大辞典

操体の専門家による、操体の最新情報など

どうやったら苦しまずに死ねるか、ということ。

先月9月17日の夜は、マドリッドの日本大使館で、師匠が文化講演を行った。最初は、健康に関する事とか、からだに関する事を何か話して欲しいような感じで、小野田茂先生の車に師匠と乗り、日本大使館へ向かった。大使館の小さいホールには、日本人会の方々が集まっていた。

講演が始まり、操体に関する話になるのかと思っていたら、操体的死生観の話になった。丁度午前中はバスでトレド観光(マドリッド近郊の要塞都市で、旧市街全体が世界遺産になっている)に行き、石造りの大聖堂を見学したり、エル・グレコの有名な「オルガス伯爵の埋葬」を観たりしたせいか、何だかキリスト教の抑圧感みたいなものを感じていた。トレドの大聖堂などは、その中に裕福な家の人々のお墓が組み込まれていたり、祭壇の脇の地下へ向かう暗い階段は、カタコンベ(地下墓地)を思わせたし、『死の恐怖』というものがなんとなく漂っていた。また、「原罪」という考え方も伝わってくるようだった。

その後、トレドからマドリッド市内に戻り、プラド美術館に出かけたが、ここにある絵画の多くはキリスト教か、王家の人々の肖像だった。ベラスケスの絵や、ゴヤの「裸体のマハ」と「着衣のマハ」なども観た。ゴヤの裸体のマハという絵は、当時もの凄いスキャンダラスだったようだが、「マハ」というのは女性の名前ではなく、流行の遊び女の総称だったらしい。例えば「ギャル」とかみたいな。

私は小野田先生と「裸体のマハ」を眺めていたが、何だか首と肩とのバランスがおかしいと思った。この絵は、首から下だけ描いて、首とアタマは後から書いたのではないだろうかという推測である。

人体について勉強した方ならその奇妙さに気づくと思う。

結構この時点で、『石の文化』『教会の権力』『魔女裁判』とか、何だかちょっと疲れたのも事実である。いや、こうやって感覚に無意識のうちに圧力をかけていったのだろう。



話は日本大使館に戻る。橋本敬三先生は「救いと報い」という事を書かれているが、人間は「絶対的に」「救われている」のである、と説いておられる。最初から救われているのだ。橋本先生はそれまで相当悩まれたそうだが、「23歳のある日、平野榮太?先生から聖書に示されている、現象以前の自分の生命というものを教示されて忽然と目が覚めた。それ以来性格が一変して呑気者になり、70歳になる今まで変わらない。略 平野先生から"救いと報い"の区別を教えられた事は有難いことだった。」(からだの設計にミスはない P249)



また、「報い」というのは「相対的」なものである。『自業自得』と言ってもいいだろう。この2つの区別をつけなさいよ、と言っているのである。



スペインは国民の殆どがカトリックと聞いている。『原罪』という概念がある世界と『既に救われている』という概念とでは、心の持ち方も変わってくると思うが、操体は『救われている』と言っている。また、あるヒト(例えばお釈迦様とかキリストとか)がどんなに素晴らしい事を言っても、聞いた人がそれを理解せず、実行しなければどうにもならない。これを『取る取らないはテメエの勝手』と言っている。つまり自己責任ということだ。



文化講演はなんだかそんな内容になってきた。

死後の世界の恐怖を煽るのではなく、『みんなが行くんだから、きもちいいところに決まってる』というほうが、心持ち的には何だかほっとする。



日本人会の皆さんは、熱心にメモをとっていた。商社の駐在の方や、こちらでビジネスをされている方々が多かったようだが、この手の話を聞くのは滅多にないことだと思う。異国のカトリックの国で、『救われている』という話を聞いたことが、少しでも彼らの心を明るくしてくれるといいなと思った次第。



さて、日本に帰国してから恒例の『集中講座』が始まった。今回参加しているのは、海外協力隊から帰国したばかりのKさんである。Kさんのメールで印象深かったのは『苦しまずに楽に死ねる方法を学びたい』と書いてあったことだ。今まで数多くの人に操体の指導をしてきたが、苦しまずに楽に死ねる方法を知りたい、というリクエストは初めてだったからだろう。

私の父は食事の最中に倒れて、救急車の中であの世に行った。あっけないというか、ほんの一瞬のことである。あの世に行く前は、10年近くも辛い透析をしていたから、多分そちらの方が辛かったのではないかと思っている。師匠もよく言われるが、「その」瞬間には、快感ホルモンが一生最後の大放出大会で、どばっと出るらしい。最後は多分そんなものなのかもしれない。

というわけで、師匠にも加わっていただき、Kさんに対して『相対的死生観』のレクチャーを行った。

Kさんはこちらに来る前に、私の兄弟子のところで10ヶ月ほど講習を受けたらしい。海外赴任中、習った操体をあちらの方に試したところ、きもちいい、と言っていただいたそうなのだが、自分自身、きもちよさがわからないと言っていた。からだと心がどのように変化するのか、ちょっと見守って行きたい。