足趾の操法®の講習をやっている。
先の「二ミリ違い」ではないが、足の指を保持する場合も、たった数ミリの違いで、被験者が受ける感覚は全く違ってくる。
また「知る悲しみ」というヤツで(操体法東京研究会関係者は、東京操体フォーラム最高顧問であり、操体の理解者である、島地勝彦先生の名著 ↓ は、必ず読んでおくことをオススメする)
一度、最高のモノを味わってしまったら、ランクを落とせないということだ。
葉巻もお酒もオトコもオンナもそうなのであるよ。
例えば操体も、第三分析(皮膚へのアプローチ、渦状波®)などで、「無意識に直結するような快」を味わってしまうと、第一分析の「ラクなほうに動かして瞬間急速脱力」の「ラク」では、納得できなくなるのと同じだ。
また、ある受講生が「私のヘタクソな足趾でも、きもちいいと言ってくれる人がいる」と言っていたが、もし、その方が「最高にキモチイイ足趾の操法」を受けてしまったら、「ヘタクソ」がばれる。
「○○センセイの足趾じゃなきゃ、イヤだ!」と言われるくらいになって欲しいのである。
さて「残念」というのは、何か。
足趾の操法には「まな板」(我々の用語です)というものがある。
「まな板を制するものは足趾を制す」と言ってもいい。
私の足趾の講習も、優秀なアシスタントに恵まれているお陰で、言語化というか、自分がなかなか言葉にできないアクションを「言葉に落として」もらっている。なので
「あ、これはこうやって伝えればいいのか」というのが明確になってきており、進捗の速度が速くなっているのだ(足趾のインストラクターの、ダブルS女史達、T君ありがとうございます)。
「言語化」したお陰で「まな板」の重要性がさらにわかってきた。
まな板、というのは、示指のことだ。示指と拇指をどう使うかということなのだ。
まな板は一ミリ外してもよくない。
はずすと「残念!」と言われる。一ミリくらいで残念と言われてしまうのか、と思うかもしれないが、被験者の「感覚」は全く違うハズである。
受け手を甘く見てはいけない。
そして、腕を壊す使い方というのがある。これも以前は体験的に「こういうヤツが腕とか肩を壊すよね」と思っていたのが「あ、ここを使うと、確実に腕とか肩とか、下手すると手首も壊すよね」というポイントが絞られてきたのである。
★「一度ぶっ壊さないとわからない」という時代もあったが、あんまり壊したくないものです
さて、この「一ミリ違う」で思い出すのが、私が最初に勤めていた会社にいた、北欧人の上司である。
私はデンマークの会社にいたのだが、上司のV氏は、ちょっとドイツっぽいというか、ヴァイキングっぽい、クマさんのような人であった。
彼はとにかく大きいので、当然手も大きい。普通の日本人用の電卓だと、隣のキーまで押してしまうので、お国から持ってきた巨大な電卓を使っていたっけ。