易を勉強していると、漢字の成り立ちも勉強します。
さて、操体の講習をしていると「きもちよさを探して(動く)」とか「きもちよさが出てくる」という言い方をする人がいて、注意することがあります。
「主語は、からだ」だから。
きもちよさっていうのは、探しても見つかりません。色々探して動いてみても、それは「楽で何とも無い」(つまり無?)ということなのです。
また、「きもちよさが出てくる」というのは、主語が「きもちよさ」になっていますが、主語は「からだ」です。
からだが「ききわける」のが楽とか快とかなのです。
さてさて、橋本敬三先生の本の帯に「調和を探る」という一節があります。これは、いい使い方だと思います。
こちらを見ると、「探」という漢字は
5本指のある手」の象形と「子宮に手をいれ、深い胎内から赤子をまさぐりだす象形」から、「さがす」を意味する「探」という漢字が成り立ちました。
子宮に手を突っ込んで赤子をまさぐる??なるほど。。
アレキサンダー大王の「帝王切開」とか思い出してしまいますね。
①「さぐる、さがす(見つけ出そうとして歩き回ったり、人に聞いたりする)」、
「求める」(例:探究)②「訪(おとず)れる」(例:探勝)
[捜・探の使い分け](さがす)
「捜」・・・「見えなくなったものをさがす」(例:犯人を捜す、失くした時計を捜す)
「探」・・・「欲しいものについてさがす」(例:職を探す)
なので、「探究」とか言うわけですね。
先の「調和を探る」というのは、調和を探し求めるという意味でしょう。
「自然法則を探る」という言うヒトもいますが、自然法則は「あるもの」。人に聞いたり探し回ったりするものではないのかも?
宇宙や自然法則は「したがう」とか「のっとる」というのがいいのかな、などと考えたりします。