2017年11月24日、秋季東京操体フォーラムの翌日は、鶴見大学生涯学習センター設立20周年記念セミナーである「死生学入門」の二回目です。
二回目の講師は、鶴見大の元学長、木村清孝先生です。「華厳思想」「東アジア仏教」が専門で、天草の出身だそうです。有名な先生ですね。よく響くお声での講義でした。
タイトルは「無常のいのちとそれを支えるもの」。
今回は、PPTではなく、シンプルな1枚のプリントの資料です。
はじめに
- いのちの無常
- いのちの実相
- 何がいのちを支えるのか
おわりに
無常、はすなわち「死」をあらわします。
木村先生は、有名な「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」(平家物語)を引用なさいました。
そして「確かにそうだな」と思ったのは、現在におけるペットの存在の話です。
家庭で死を迎える人は、少しずつ増えているそうですが、例えば最近の子どもや少年少女にとって、「死」というのは「遠い」存在です。
昔は、家で最後を迎える祖父母など、「死」は身近な存在でしたし、葬儀も家でやるのが普通でした。
今、それに変わっているのがペットの死なのだそうです。
確かにそうかもしれません。育てて、可愛がって、一緒に大きくなって、見送る。
(子どもの場合、世話をするのは結局お母さんになるみたいですが)
さて、木村先生の講義の中で、私がメモしたことを書き出してみます。私の個人的なリマインドです。
無常=死
ペットの死→身近な死。肉親の死が遠くなり、ペットの死が近くなっている。
「苦」。仏教でいう苦は、自分の思い通りにならないことを言う
無常を自己の問題としてみる
縁起的存在としての自己 → 自分のひとかけら。他者としてあらわれた自分
「一中十、十中一。一即十、十即一」(華厳五教章 抄出)★意味は「個と全体は一体的である」「根本的なつながり」「すべてのものの中に私のはたらきがある」
煩悩。消すのではなく、コントロールする
有為 つくられたもの(有為、には「役に立つ」などという意味もある)
花。今は花と言えば桜だが、昔は花と言えば梅だった。