今日の午前中は「足趾の操法集中講座」の応用編。
脛骨の際や内果周辺の対応をやりました。この辺りがケアできると、施術の幅がぐんと広がります。
午後は「定例講習」。
この写真ですが「第一分析」の際によく起こる「あること」に対する効果的な施策です。
「使用前」「使用後」の違いが明確に分かります。
これは、臨床中の些細なポイントですが、これが結構生きてきたりします。
今日の午前中は「足趾の操法集中講座」の応用編。
脛骨の際や内果周辺の対応をやりました。この辺りがケアできると、施術の幅がぐんと広がります。
午後は「定例講習」。
この写真ですが「第一分析」の際によく起こる「あること」に対する効果的な施策です。
「使用前」「使用後」の違いが明確に分かります。
これは、臨床中の些細なポイントですが、これが結構生きてきたりします。
D1と言えば第一分析、D2と言えば第二分析です。D3と言えば第三分析です。
世の中には、勘違いをしている人がいて「操体の臨床では、第一分析をやってから、第二分析をやって、その次に第三分析をする」という方がたまにいますが、
それは、間違いです。
この3つ(他にもありますが)は、番号順に順番にやるものでありません。
便宜上、古い順に1から番号を振っているのです。
第一分析 対になった動きを比較対照(運動分析)し、楽な方に動かして瞬間急速脱力
第二分析 一つ一つの動きに快適感覚をききわけ(これが分析@感覚分析)、そのきもちよさを味わう(味わうのが操法)
第三分析 皮膚に「快不快」あるいは「予備感覚(快でも不快でもない前駆感覚)」を聞き分けさせる
第四分析 息診
第五分析 これから公表されます
ということで、特に「第一分析」と「第二分析」は全く違います。
第一分析は「運動分析」ですが、第二分析は「感覚分析」です。
さて、我々も第一分析をやりますが、いわゆる「古典的第一分析とはやっぱり違う」のです。
どこが違うかというと「運動分析もやるけれど、感覚分析も加えており、瞬間急速脱力ではない」ということです。
これだけでも、古典的第一分析とは全く様相が違って来ます。
実際に見て頂くと「全く違うモノに見える」と言われます。
まず、第二分析は「動きが螺旋」です。
D1'も動きは螺旋です。
古典的なD1は、介助補助と言わず「抵抗」と言っていますが、D1'では、D2同様「介助、補助」と言います。
古典的D1は、例えば抵抗を与えるにしても「直線的」です。
D1'は、螺旋的で、ベクトルを細かく考慮します。
というわけでこれをD1'(ディー・ワン・ダッシュ)と名づけました。
今度一覧表も改訂します。
さて、私が得意なのは、実はD1'だったりするのですが、今まで過去に「ミドル講習」として、希望者に伝授していましたが、いかんせん、操体の基礎が必要ということがわかりました。
操体の基礎とは「般若身経」を理解しており、ある程度「操体的なからだ」であることです。
★だいたい「操者自身のからだの使い方、動かし方を体得してから臨床に臨むため、操者が疲弊しない。被験者がきもちのよさを味わっていたら、操者もきもちよさを味わうことができ、逆に元気になる」なんていう手技療法は他にないのでは。
今の時点では、操体法東京研究会で、ある程度の基礎を身につけた受講生向けに、クローズドな講習をやっています。
さて、D1'とは。
運動分析と感覚分析の違いが分かっていて、なおかつそれを、被験者の状態に合わせて微妙な配分で使い分けることが必要になってきます。
今月、スペインのマドリッドへ行って来ますが、今度はD1'をもう少し深めたものを紹介したいなと思っています。
2018年11月23日開催の東京操体フォーラム発表者からの「ひとこと」です。
【身体芸術と操体】
人間とういうものは、大人になるほど感覚を無視してしまう。
失われた感覚を復活させるのが、身体芸術だ。
この身体芸術は、魂の躍動、つまり全身体性である。
つまり、思考では表現できないものである。
【身体芸術として操体の出会い】
私が初めてそれが操体だと知った時、それはアートだった。
私が最初に出会った操体はただ触れるだけ。
そんなことでからだ状態が改善すると普通の人は思うだろうか?
しかし悲しいかな、嬉しいかな結果が出てしまった。
当日は操体との出会いについてお話ししたいと思います。
【「美」から「動」を捉えていく】
長年、人々を惹きつけてきた美しいと評されてきたものには必ず「動き」が関与し様々な形で表現されてきた。
絵画、彫刻、芸能、スポーツ。
いかなるジャンルにおいても人々は感覚を通してからだを使い美しさを表現してきたが、その美しさには決まった法則がある。
その法則を今回はアスリートのからだの使い方、動かし方から紐解いていきたい。
香(こう)(東京操体フォーラム実行委員 タスクフォース)
【美】
からだをみる方法は、問診・視診・触診・聴診・打診などが一般的です。
操体法では、からだを動かしてみる動診(どうしん)という方法があります。
「からだからのメッセージを動診で受け取る」身体が導く世界にご案内いたします。
【発声」という動きについて考える】
名著「快からのメッセージ」のある頁に、『発声も動きであり、連動し快に継がる』と書かれている。初めてこの一文に触れたときから、この問い掛けの中には臨床の可能性がぎっしりつまっているような、予感を抱き続けてきた。演奏活動を通して「発声」という営みについて模索してきた身として、この壮大なテーマに、微力ながらまずは半歩でも臨んでみたい。
瀧澤一寛(東京操体フォーラム副実行委員長 タスクフォース てまり堂)
【身体運動から身体芸術へ】
操体には、「からだがききわける感覚によってからだは変化する」という世界観があります。一人で行うセルフケアにせよ、操者が関与する臨床にせよ、そこでは操者と被検者、また両者のからだが「感覚」を通して互いにひびき合いながら、「操体的なからだ」へと変化していきます。健康維持増進に欠かせない「操体的なからだ」がどのように生み出されていくのか、そのプロセスに迫ってみたいと思います。
岡村郁生(東京操体フォーラム 賢人組 操快堂)
【生きるために死ぬ】
肉体に美しさを見出す意味とはなんだろう・・・。
男性である、女性である、ということはどういうことなのだろうか。
人種や年齢を推測するのに必要なのは、皮膚である。
からだを包み保護する覆いと、繊維製の付属(髪と爪)さえあれば、
お互いに求めるなら私たちは欲求の対象とみなすことができる。
そこにあり、目に見える表皮細胞はすべて死んでいるのに、
生きているとみなし、その存在を私たちは認識している。
古今東西、美の対象とされてきた本質へ問いかけてみたい。
畠山裕美(東京操体フォーラム 理事・事務局 TEI-ZAN操体医科学研究所
【スペインのセミナーレポートと、操体の作法と仏教の作法について】
10月18日から21日まで、スペインのマドリードにて操体のセミナーを開催予定である。
前半はマドリードのセミナーをレポートする。
後半は「操体的なからだの使い方、動かし方の作法と仏教の作法」。
昨年四月から今年の三月まで、東京国際仏教塾で、前期に仏教全般、後期に専門クラスで曹洞宗の寺院での修行に参加した。その体験を踏まえて、操体の作法を考察してみたい。
「人間の表現には、大別して3つあるという。言語表現、美術表現、音楽表現であり、それぞれの分野に芸術作品を残して来た。それらは、形を有する。
それとは別枠で身体表現というものがある。これは無形である。空間の中に消え去る。
操体は、身体表現そのものが臨床となっている芸術である。
身体芸術の観点から、時間の許すかぎり「操体」を論じてみたい。」
うんと小さい頃「プーさん」の言っていることがよくわかりませんでした。
でも、コブタ(映画と原作ではピグレット)をプーが橋の上から松ぼっくりを流す遊びは面白いと思っていました。
少し大きくなってから「タオのプーさん」を読んでなるほど、と思いましたが、なるほど、で終わっていました。
この映画は、大人になったクリストファー・ロビンが仕事と家族の板挟みになってどん底にいる時に、プーと奇蹟的な再会をし、懐かしい「100エーカーの森」に帰って、懐かしい仲間と再会し、忘れていたことを思い出す、という話です。
最初のほうで、クリストファー・ロビンが寄宿学校に入るため、「100エーカーの森の仲間」と別れるシーンが出てきます。
もうこの辺りで涙腺が崩壊(笑)
厳しい寄宿学校、お父さんの死、これから一家の主としての責任を負った少年。
戦争。戦後に商社に就職、結婚。。
というわけで、クリストファー・ロビンは仕事で週末家族と過ごすはずだったコテージへ行けなくなります(幼い頃過ごした場所で、プーや仲間達と遊んだところ)。
ロバのイーヨーの超ネガティブっぷりや、ビビりのピグレット(コブタ)、カンガとルーのカンガルー親子、トラのティガーなど、お馴染みの仲間達が出てきますが、この辺りでも涙腺崩壊です(笑)
なお、プーさんがロンドンの公園に迷い出て、クリストファー・ロビンと再会するシーンですが、これもなんだか涙腺崩壊です。
一つ一つのシーンが、刺さるというか揺さぶるというか、自分がいかに「大人の世界」に浸かっているかがよくわかります。
40年ぶりにに復活した「ポーの一族」(次回は2019年1月号)。
昨年の「春の夢」は、衝撃でした。
まさかまさか、エドガーとアランが帰ってくるなんて。
というわけで、萩尾望都先生のマンガは大抵網羅している私ですが、何故かちゃんと読んだことがなかったのが「イグアナの娘」。テレビドラマ化もされたらしい(見てないけど)。
改めて読むと、これは確かにショッキングな話です。
長女が生まれた時から、母親には娘がイグアナに見えるのです。
娘も自分がイグアナに見えるのです。
★写真に写ると普通に写ります。
母親には次女はかわいい女の子に見えます。
母親は妹ばかり可愛がり、本当は頭のいい姉娘のことを、妹に「ブスでバカな姉」と教え、母と妹で姉娘をバカにします。洋服なども妹にはかわいいのを着せます。
姉はH橋大に現役合格、妹もH橋に行きたい(姉が行ってるから)と担任に相談すると「H橋は無理。ランクを2つ下げないと」と言われちゃったりするのです。
なんだか、他人事ではない(笑)。
最後は、結構衝撃的です。ネタバレ承知で書くと、姉娘と母親は、母親が亡くなってやっと和解というか、ナゾが解けるというか。
あ〜。昔に読まなくてよかった(笑)
先日紹介した
この本に、「親子関係は嫉妬の温床」ということが書いてありました。
「イグアナの娘」では、母親は姉娘が、実はIQが高く、学年で一番だということを担任の先生から聞いて
「あのブスでバカなリカが、なまいき!」と、怒るのです。
妹が母の誕生日にハンカチを買えば喜ぶのに、姉がプレゼントを買うと
「何で無駄遣いするの!お店に返してらっしゃい!」と、プレゼントを投げつけたりするわけです。
というのです。まさに「親の嫉妬」。
私の占いのクライアントにも、母親との関係で悩んでいる人は多いのですが、「嫉妬」によるものが多いように思えます。また、何と言っても母親ですから、どんなにひどいコトを言われてもされても、「自分のためを思って言ってくれてる」「心配してくれている」「これも自分にあたえられたこの世の修行」など、「嫉妬」から抜け出せず、許しては傷つくことを言われ、許しては傷つくことをされ、ということを繰り返している人もいます。
私も母親との関係には相当やられました。
でも、今は「あれは嫉妬だったんだ」と思うことができます。
また「ちゃんとした」仕事(正社員とか働かなくてもいい専業主婦とか、あるいはちゃんとヨメに行って子どもがいるとか)ではなく、フリーランス(治療家だし占い師だし笑)なので、「ちゃんとしていないこの子には、ちゃんとするようにうるさく色々注意しなければ、ダメになる」と「あんたのため」を思って、色々言われるというわけです。そのカラクリがわかれば、とっても楽になります。
親子関係というものも、表から見るだけでなく、裏からみることも必要です。
男性にとっての母と、女性にとっての母というのは、やはり少し違うのです。
父と息子、父と娘というのも、やはり違うのです。
そして、親子関係のアンバランスから、体調を崩すとか、免疫系疾患になったりすることもあるのです。