操体法大辞典

操体の専門家による、操体の最新情報など

触れること。

最近は、ネトフリで「ルシファー」を見ている畠山です。

お、これは冒頭5分見ることができますね。

warnerbros.co.jp

 

自分でも笑っていますが、Young Popeの次はルシファーかよ!みたいな感じです。

 

ブッダとイエスが休暇をとって、東京都立川に降臨するのは「聖★お兄さん」ですが(映画もネトフリでみましたが、面白かったです)、これは、地獄の統治に飽きたルシファーが、LAで高級クラブを営業しており、美人刑事の事件解決に手を貸すというお話。

 

ルシファーが「ボクは悪魔だ」といくら公言しても、誰も信じないのです(笑)。

ルシファー役の俳優(トム・エリス)が、もうこれ以上はまり役はないだろう、というくらいハマってます。

 

話し方とかもすごくインパクトがあるので、吹き替えよりも字幕をお薦めします。

ちなみに、ルシファーって「明けの明星」と言われますが、英語だと、そのまんまで Morningstar なんですね。。。ミスター・モーニングスター

 

さて、ドラマの中には、初回殺された女優が1週間に5回通っていたという、セラピストの先生が登場します(ドクター・リンダ・マーティン)。

 

そういえば「シャーロック」でも、アフガンで怪我をしたトラウマに苦しむジョン(ワトソン)は、セラピーに通っていて、治療のためにブログを書くことを勧められ、結局はシャーロックとの事件をブログに書いてそれが大好評、というのがありました。
ジョン・ワトソンは医者なので、この時「MDもセラピストのお世話になるのか」と、思った記憶があります。

 

海外では、セラピストにかかる、というのはドラマにでてくるくらいポピュラーなことみたいですね。

 

話は戻りますが、先のブログにも書きましたが、基本的に心理カウンセラーは、クライアントに触れません(海外では、挨拶とかはどうなのかは謎です。ご存知でしたら教えてください)。日本の精神科の先生も、患者さんには触れません。
聞いたところによると「セクハラ」を防ぐということもあるようです。

セクハラは「されたほうが」「やられた」と言えば成り立つこともあるので、そういうことなのか、と思います。

 

こうやって考えると、我々手技療法家は「触れる」という手段を持っており(最近は、触れなくても施術を行うことができます)、なおかつ操体は「心」に直結する「感覚」を重視していますので、身心の双方からアプローチが可能です。

 

なお、人間のセンサーはすごいものがあり、カンのいい人ならば、ちょっと触れられたたけでも、相手の情報を得る(あるいは、本人は得たくなくても得てしまう)ことができます。

 

皮膚は、ものすごい情報の宝庫ですが、触れ方をまちがえると、情報を隠して、見せてくれなくなります。

被験者本人に自覚がなくても「からだ」が、反応して「見せてくれない」ことも多々あります。

 

なので「触れること」に対しては、ますます修業を積む必要があると思った次第。

 

コンパチブルのコルベットをLAで乗り回すルシファー、一方こちらは立川のアパート(松田荘)で休暇をエンジョイしている神の子と悟った人。

劇中ではイエスがネトフリを視聴しているという設定なので、多分「ルシファー」見てると思います。ちなみに、「聖兄」に出てくるルシファーは、面倒見のいい兄貴分です。ハダカにベストという薄着ですが「魔族のオシャレは我慢から」というモットーがあるからだそうです。

 

そして、わすれちゃいけないのが「鬼灯の冷徹」のサタン様ですね。

こちらは超美形から、堕天してムキムキになったのですが、それもよしとしているようです。

 

 

 

 

本当の私よ こんにちは

昨日に引き続き、大嶋信頼さん(心理カウンセラー)の新著を読みました。

こちらは、かなり専門家向けです。

紹介されているのはFAP療法(Free from Anxiety Program)  Anxiety とは、不安のことです。医学的に  Anxiety disorder を、不安障害と言います。

 「指押し」を使った、心の傷の治療法初公開、です。

 

なお、当然ではありますが、こちらで紹介されているのは、初歩のものです。
また、心理カウンセラーは、クライアントに触りませんので、触れるのは、クライアント自身です。

アメリカ人は、難しいものを超簡略化して、プロトコル化(手順化)して、例えば頭蓋仙骨療法の、テン・ステップ・プロトコルとか作って、広めたりするのが好きですね。

つまり、誰がやってもそう外さない程度の安全なものにし(効果もそれなりに薄まる)て、広めるのです。

 

これは「広める」という手段においてはよい方法です。

操体法も「膝倒しとつま先上げとカエル足」(私達は、つま先上げとは言わず、足趾の背屈とか、伏臥足関節外転と言います。プロだからね)のような言い方で、「基本操体」パッケージになっていることがありますが、これもプロトコル化の一つです。

(橋本先生の「万病」には、操体AとかBとか、記号で名称がついており、動診と名称が結びつきにくかったので、愛称をつけたのです)

 

なので、この本の内容も、かなりプロトコル化されている、という前提で読むと、色々想像できます。

 

操体(第二分析以降の操体法)の習得に時間がかかるのは、仕方がありません。
プロトコル化できないからです。
たまに、渦状波で「どの症状にはどこに触ればいいのかを知りたい」という人が居ましたが(知りたい気持ちはわかる)、それがないのが、渦状波なのです。

 

しか~し、朗報と言えば朗報ですが、第五分析は、かなりのスピードで進化していますが、ある程度のプロトコル化が出来そうです(といっても、第二から第四までしっかり理解していれば、の話です)。

 

操体法の、第三分析、第四分析を学んでいる私達にとっては、また、鍼灸で経絡に詳しい方など、量子医学的なものに普段から慣れ親しんでいる方ならば、大いにヒントを得ることができるはずです。

 

また、足趾の操法や第三分析(渦状波)などを行っていると、手の指がピクピク動くなどという反応は、実践している方は日常的に見る風景だと思いますし、逃避反応をはじめ、からだの無意識の動きを診断分析材料にしている我々にとっては、今まで見逃していた情報を再利用できることにもなります。

 最初に「指押し??」と読んで、「TFTか??」と思った方もいるかもしれません。

TFTとは、手とかのある場所をタッピングするというものです。

私自身は、操体の「渦状波®」という最高に強力な臨床ツールを持っているので、TFTは「プロトコル化しすぎて薄まりすぎ」という印象がありました。

言うなれば、レイキと同じような印象です(私の場合、外気功を学んでいて「レイキは効かないから外気功を教えて欲しい」という人をわんさか見てしまったのも原因の一つです)。

 

 

FAPは、手をブラブラさせてなどとという色々な研究を積んでいくうちに、TFT創始者から「それはTFTじゃない」というクレームがつき、大枚をはらってなったTFTのインストラクターのポジションを捨てて、作られたものなんだそうです。

 

まとめです。

  • 第一分析の「基本操体」的なものや「般若身経」(クラシック)は、かなりプロトコル化され、それ故に結構広まっている
  • しかし、それは「薄まっている」ため、サークルや養生法、健康体操としては充分活用できる
  • 1980年代頃までは、現在とは環境が大きく異なっていたため(動かして壊したという状況が多数)、動かして治った(効果があった)
  • 現在は、40年前とは完全に環境が変わっている上、1990年代に精神疾患が多発したこともあり「動かして壊した」という状況が変わってきている
  • となると、楽な方に動かして瞬間的に脱力、という第一分析では限界が見えてきた
  • そこで「快」に三浦寛が着目し、第二分析を体系づけた
  • その後三浦寛が第三分析(皮膚へのアプローチ)を体系づけた
  • 第四分析(息診・息法)で、空間の認識を変えた(量子医学的)
  • 第五分析(操体の根底を変えるような変化)

 

 

こころの「ソーシャルディスタンス」

★補足★ SNSについて関連記事を見つけました。
国木田独歩の玄孫、モデルの国木田彩良さんのインタビュー記事ですが「SNSも、仕組みを理解して使う」という意見には賛成です。

forbesjapan.com

 

私も勿論、SNSとかやっていますが、基本的に「知ってる人」が範囲です。
今そこでやりとりをしているのは「心地いいパーソナルスペース」をあけられる人ばかりです。

 

そのあたりで面白いな、と思う事を挙げると、何かドジったとか、変なこと(大変なことではなく、変なこと)に巻き込まれたりした場合、私自身、本人は「自分のドジりや変なことをネタにして面白がっている」とか、私は臨床家なので、ケガしたりどこか痛めたりしても「新しいケーススタディである」とか「どうやったら治るか経過をみるか」みたいな「結構面白がって見ている」スタンスなのに「悲しいね」マークが付いたりすることなんです。

このあたりは研究の余地があるかもしれません。

 

コロナ禍で、生活が一気に変わり、人に合う回数が減り、その代わりにネット上でやり取りをすることが増えました。

 

こころのソーシャルディスタンスの守り方

こころのソーシャルディスタンスの守り方

  • 作者:大嶋信頼
  • 発売日: 2020/10/28
  • メディア: 単行本
 


そして起こっていることは「パーソナルスペース問題」です。

 

「過去と今の違いは「パーソナルスペースに侵入してくる人に出会う確率が手紙の時代と比べてはるかに高い!」ことだと思います。

 

私がネット上のバーチャルな人間関係に触れたのは、1990年代前半。まだ、mixiとかFBやLINEもない時代です。

 

当時は「メーリングリスト」というのがあり、共通の話題を持った人達が集まって、リスト投稿することで、情報交換をしていました。

 

携帯電話が一般化してきた時代で、二つ折り携帯の頃です。
よく「誰からも電話が来ないから、携帯なんて持ちたくない」とか「誰からもメールが来ないから、携帯なんて持ちたくない」という人もいたり(時代です)。

 

それなりに大変なこともありましたが、今のほうが大変かな。

 

 

FBもやっていますが、情報公開は、限られた人にしています。

 

というのは、いくつかきっかけがありました。
何かのご縁はあったんだけど、会ったことがない人から、いつも、即「いいね」がつくとか、そんな感じのことが、起こり、何だか変な感じがしたんですが、これが多分「パーソナルエリアへの侵入」です。

 

具体的に言うと、大嶋さんの本に書いてあるように「腰痛への対処法を長々と聞いてきて、結局はそれで終わり」とか。

また、あまりにもネガティブなこととか、正論しか言ってこないので、何だか疲れるとか。

ここでとった私の行動は、その人たちから距離をおく、ことでしたが、これが、この本に書いてある

 

自由に生きられるようになるためにもSNSやLINEの中で「あっ、この人はパーソナルスペースを侵入してくる人かも!」と見きわめて、こちら側が適切な距離をとる必要があるんです。

 ということかな。

(パーソナルスペース侵入云々というのは、心理療法の「外在化」というテクニックだそうです)

 

お互いに心地いいパーソナルスペースをあけられる友達や仲間に出会うことで、本来の自分に戻っていきます。

 

自分らしく生きる、というのは、なにも「自分」を主張することではなく、周囲の人と、ほどよいスタンスとバランスを保ちながら生きることなのではないでしょうか。

 

 

ふむふむ。

昨日の続きになるが、「よかれと思ってやったのに」に、著者の清田さんと、前川直哉先生(男の絆 著者)の対談が載っていて、なるほど、と思ったところがある。

 

よかれと思ってやったのに

よかれと思ってやったのに

 

 

私は早速、前川先生の本を読んでいる。

 

男の絆 明治の学生からボーイズ・ラブまで (双書Zero)
 

 なるほど、と思ったのは、ホモソーシャルについての話である

ホモソーシャル (英: homosocial) とは、恋愛または性的な意味を持たない、同性間の結びつきや関係性を意味する社会学の用語。 友情や師弟関係、メンターシップ、その他がこれに該当する。 対義語であるヘテロソーシャルは異性との同様な関係を指す。(ウィキペディア 

 

私がこれを読もうと思ったのは、明治時代は、男性同士は結構ポピュラーだったということ、橋本敬三先生の小説にもちらっと出てくるが

 

米澤と云ふ所はいやな風習のある所でその頃美少年であった自分はあすこの中学校などに入るごとふ事はなにか恐ろしい事に出合ふように思われたからでもあった。

 

この一文である。中学受験(旧制中学)で、会津中学(会津高等学校)と、米沢の中学を受験するという話で、米沢の「いやな風習」と「美少年」と言えば、そうなんである。

 

ホモソーシャルな男性たちや、ホモソを描いた作品(ヤンキー映画や往年のジャンプ漫画など)なんかを見ていると、そこに登場する女性には

  • 男たちの世話をする「マネージャー」(野球部のマネージャーとかいましたね。。)
  • 高嶺の花「ミューズ」(北○の拳のヒロインとか)
  • 一緒に戦える男勝りの女「名誉男性」(いっぱいいすぎてわからない)

この3パターンしかないと。これは「なるほど!」である。

以前にも書いたが

「鬼滅」が女子ウケするのは、ここだと思う。

女子は「マネージャー」も「ミューズ」もあんまり好きではないのだ(というのは、あれはオトコの願望だとしか思えないからだろう)。

 

「鬼滅」に登場する女子は、この3パターンには当てはまらないのだ。

柱の二人(しのぶと蜜璃)も、隊士のカナヲも、他の男子と一緒に戦うが、男勝りではない。

また、少女達に人気がある、セーラームーンとかプリキュアは、この3パターンにあてはまらず、むしろ鬼滅の女子キャラに近いことがわかる。

 

ONEPIECEは、同じジャンプの作品だが、登場する女子は、プリンセスだとか、航海士(強いけど戦うわけではない)とか、考古学者はいわば高嶺の花、ミューズではないか。

 

なるほど。。。

 

といいつつ、水曜日だったので、レディスデーだったので「無限列車編」2回目を観てきた。前回は初日で、席も満席でザワザワしていたが、今回は日比谷のTOHOシネマズのプレミアムシアターで、じっくり鑑賞することができた。

2回観ると、細かいところに気がついたり、色々な発見がある。

 

 

読書日記@2020年11月「共感」

今月も「読んでない」といいつつ、結構読んでいる。

 

今日ご紹介する本は、読む人は読んで心をえぐられるだろうが、読まない人は「自分は関係ないから」と、一生読まないのではないかと思う。

 

私はかなり、えぐられた。そして、私がずっと感じてきたのは「絶望感」だということもよくわかった(絶望しているわけではない。後述)。

 

 

 

 

著者、清田隆之氏は、1980年生まれ。大学時代に「女子の悩みを男子が聞く」という「桃山商事」というサークルを立ち上げ、現在に至る文筆家である。

清田氏は、この本の中で相談者から寄せられる「男性像」のエピソードをまとめた。そこから見える傾向や共通点を抽出したのである。

それは、全く別の女性達から得られた情報にもかかわらず「これ、同じ人のこといってるんじゃない?」的な共通点があったのだ。

 

なお、私は占い師もやっている。当然ながら恋愛のご相談を受けることが多いのだが、頷けることが非常に多い。

特に「人の話をきかない」「決断を先延ばしにする」「あやまらない」「すぐ不機嫌になる」というのは、「あるある」過ぎて笑ってしまう位だ。

 

  • 小さな面倒をおしつけてくる男たち
  • 何かと恋愛的な文脈で受けとる男たち
  • 決断を先延ばしにする男たち
  • 人の話を聞かない男たち
  • 謝らない男たち
  • 女性の身体について無理解な男たち
  • 仕事とプライベートで別人のようになってしまう男たち
  • プライドに囚われる男たち
  • イキる(イキがる)くせに行動が伴わない男たち
  • 男同士になるとキャラが変わる男たち
  • すぐ不機嫌になる男たち
  • 何ごとも適当で大雑把な男たち
  • 付き合い始めると油断する男たち
  • 「ほうれんそう」ができない男たち
  • 上下関係に従順すぎる男たち
  • 話し合いができない男たち
  • お金のつかい方が意味不明な男たち
  • 身体のことを考えていない男たち
  • 保守的で変化を嫌う男たち
  • シングルタスクな男たち

勿論、全ての男性がこうだと言うのではない。

 

私は以前から「何故、男女差があるのか」とか「ジェンダー論」には興味があるので、それこそ黒川伊保子さんの本などはしっかり読んできた。伊保子さんは、優しい目で男女の脳の差違を説明してくれるし「女の機嫌の直し方」という本は、賢人半蔵さんが紹介してくれて、フォーラム実行委員の男性数名は、この本の恩恵にあずかったと言っていた。

 

しかし、しか~し、ここで面白かったのは「あなたが一番読んだほうがいいんじゃないですか」と言う人が読まないのである。

 

この本は男性が、自分達が見たくない、目を背けたい、実際に男性が「人の話を聞かない」とか「決断を先延ばしにする」とか「無自覚のうちに女性に絶望感を与えている」ことに目を向けている。

 

女性はちょっと間違えると「オバサン化」する。ならないように努力するのだが、子育てとか人生の節目などで、吹っ切れて「オバサン化」する。つまり、わかっていてやるのである。オバサン化しても、どこかで「見ている私」がいるのは間違いない。

 

男性は圧倒的に「無自覚」が多いらしい。
例をあげると「一人だといい人なのに、男性の仲間とつるむと、急に人が変わる」、例えばオラオラになるとか、男尊女卑になる」とか。清田さんは、その辺りの変化が激しい周囲の知人にリサーチしたところ、

「オレはそうじゃないからわからない」

という答えが返ってきた、と書いている。

つまり、やってるのに無自覚なのである。

 

この、無自覚というのが一番こわい。

 

なお、冒頭に書いた「絶望感」だが、私の場合は「話が通じない」という絶望感が大きい。

 

これは、自分の父親がそうだったので、なおさらわかる。

 

また、近しい人の中にも「話が通じない」人がいる。通じない、というのは「聞いた質問に対して、答えを返してくれない」とか「へ、そこ?」という感じなのだが、今回なおさらよくわかったのは「そういう人は、人の話を聞いていない」ということだ。

 

黒川伊保子さんは、愛情をこめて「処理能力以上のことを(感情表現とか)言われると、男性脳は女性の言葉がモスキート音に聞こえる」というようなことを書いている。

脳が緊張し、緊張したあまり、空間認知能力(戦略力、危険察知力)を最大限に使うモードに入るので「ほえほえほーひーぷー」みたいに聞こえるんだそうである。

 

最近は「あ、この人には、私の言ってることは、ほえほえほーひーぷー、って聞こえてんだな、と思うが、直感的には、これを敢えて「聞きたくないからやっている」人もいるように思える。

つまり、確信犯的に人の声を「ほえほえほーひーぷー化」しているのではないか。 

 

さよなら、俺たち

さよなら、俺たち

 

 

二十数年前、私の父が心筋梗塞で急逝した際の話だが、当時勤めていた会社は、親が亡くなっても正式な忌引きは3日というクソ(マジです)な会社だった。

その時、同僚だった人は「私は親を亡くしたことがないから、アナタの気持ちはわからない」と言った。

その背景だが、忌引きは三日なのに、それ以上休んだ私に対して「その分私が忙しかった」という、あきらかに非難のニュアンスがこもっていた。

 

この時、私は「こんな人もいるんだ」と驚いたことがある。

 

もうひとつ。

私が大好きでよくここでも紹介している「密教僧 秋月慈童の秘儀」。見えてしまう、という霊感を持った密教僧が、中学時代その能力で悩み、成長するというくだりがある。

 密教を学ぶには、お薦めの本であるし、能力者の成長物語でもある。

 これを読んだ人には、大きく分けて2つの反応がある。

「面白い」(多数はこちら)。

もう一つは「自分はこういう能力を持っていないから、よくわからない」という反応だ。

マンガも小説も、感情移入するから面白いのだが、もしかすると、この反応をした人は、霊的なものが嫌いだったのかもしれない。

 

しかし「自分はそうじゃないからわからない」というのは何だか少しさびしい。

親が亡くなった人に「私は親を亡くしたことがないから、あなたの気持ちはわからない」とか、犯罪の被害に遭った人に「私はそういう目に遭ったことがないからわからない」というのとあまり変わりがなさそうな気もする(霊的な事が怖かったのならば、すんません)。

 

さて、私は何が言いたいのかというと、グレートコンジャクションと共に、共感や、感情を言語化する時代がくるのではないかということだ。

また、私をはじめ多くの女性が味わっているだろう「伝わらないという絶望感」の謎が解けたということだ。

 

先の清田さんの本に、面白いエピソードがでてくる。

妻に浮気をされた男性が怒っているのだが、その人は、感情の言語化ができない。

気持ちを聞かれても、自分は悲しいとか寂しいとかくやしいというのではないのだ。

「だって、不倫って悪い事でしょ?!」と、物事の善悪判断において悪い事だから、悪いのだ、というのである。

この人も本当は悲しいとか辛いとか、そういう感情がしっかりあるはずなのだが、感情に光を当てて、言語化することをしてこなかったのだ。

なので「浮気は悪い事だから、悪い」ということになる。

 

お、話が「正しい・正しくない」「損か得か」ではなく「好きか嫌いか(快か不快か)」に近づいてきましたね。

グレート・コンジャクションと勝ち負け

私は昔から勝ち負けに興味がない子だったので、勝ち負けを競う運動会や、ゲームには殆どノータッチであった。

 

オリンピックとかにしても、勝ち負けではなく、フィギュアスケートとか、体操とか、評価点ものが好きなのである。

 

なので「あんたとゲームしても全然面白くない」と言われ続けてきた。

 

以前フォーラムにいたある人が「美は勝ち取るもの」と言っていたが、べつに勝ってとらなくてもいいじゃん、と思っていた。で、誰に勝つのか?老化?

 

コロナに勝つ!とか言ってるけど、勝つよりも、これからどうやって共存したらいいのかを考えたほうがいいのでは?

 

フォーラムの実行委員も色々変わったが、面白いのは「勝ち負け」が好きな人は、外に出るとか、自分のメソッドを作るとか「自分が一番になりたい」ので、独立する人が多いのかな、と思う。

 

ちなみに、ある人から「これから、地の時代から風の時代になるそうですね」と言われた。

調べてみると、12月に「グレート・コンジャクション」が起こるのだそうだ。

というのは、2020年末から、産業革命以来の価値観が徐々に変わっていくらしい。

 

「陽の時代と陰の時代」というのは、東洋的な変化の話で、私もよく使うのだが、

21世紀ちかくなり、ヒッピーの(フラワー・ムーブメント)皆さんが言っていた「水瓶座の時代、調和の時代」は、段々とやってきた。

しかし、古いしがらみは残り続けている。

それがどうやら、ダメ押しで変わるのが、これ(グレコン)かもしれない。

ざっと言うと「目に見えるもの(地)、物質的な価値」から「目に見えないもの(風)」とか「安定、動かないもの」から「動きがあり、どこにでも入って行くもの」など、色々考えられる。

 

 

 

crea.bunshun.j

昭和の香りとフォーラム

私が子供の頃は「明治生まれのおじいちゃん」みたいな感じで、明治イコールおじいちゃんおばあちゃん、というイメージでしたが、令和になった今、自分も「3年号生きてるよね」と、感慨深い感じがします。

 

さて、来週開催の「2020年秋季東京操体フォーラム」ですが、テーマが「操体法クロニクルズ(年代記)」です。

www.tokyo-sotai.com

文字通り、今までの某大な資料の中から、操体の歴史を見直そうというのが目的です。

そのついで、というわけではないのですが、データを掘り起こしていて「健康を取り戻す操体法」という、橋本先生出演のVHSビデオを見つけました(五巻組)。

当然ながら、現在は入手不可能です。 1981年1月1日発売ですから、フォーラム実行委員の中には、まだ生まれてない人もいる時期です。

最後に見たのはいつだか忘れたのですが、すっかり中味を忘れていたので、見てみました。

 

製作が「農文協」なのですが、農家の皆さんの健康維持増進のために、日々の暮らしのなかで生かせる、操体法の考え方を紹介しています。

 

面白いのが「歪み」のシーンでは、ウルトラQのテーマっぽい、怪しいダークな感じの

BGMだったりします。そして、動画ではなく、写真やスライドに解説がついているものなのです。

 

割烹着を着た農家のお母さんや、農道で草刈りをするお母さん。

実は母方の実家が、宮城と岩手の県境の農家だったりする私は、何だか激しく懐かしいものでした。

 

農家の皆さん向けの啓蒙もあるのだろうと思いますが「歪みは悪い」「歪みがおこるから病気になる」(あながち、間違いではないのですが)ということをうたっています。

 

操体には、もともと「不自然の自然」という考えがあるので「歪みを悪の権化」とは考えませんが、わかりやすく「歪みはよくないよ」という一般論で進めていることは、よくわかります。

 

これも「伝える相手によって内容を変える」という方法です(お釈迦様と同じ方式)。

なので「橋本先生はこう言った」「ああ言った」というのは「その人に合わせて伝えていた」解釈すればいいのではないでしょうか。

 

そして、その後に、橋本敬三先生がホテルオークラセミナーをやった際、16ミリで撮影していたものをDVDに落としたものを見てみました。

 

この辺りをみると、現在我々がやっている臨床は、本当に練られたものだと思います。

 

橋本敬三先生がやっていらした映像をみると、かなり大胆ですが、持ち方や誘導の方法や、おそらく言葉のタイミング(ヒプノセラピー的でもある)は、やはり「名人」の香りがしますし、名人達人ほど簡単にやってみせる、というのも納得できます。

 

簡単に見えるので、真似してやってみても、簡単にはできないことも、よくわかります。

また、1980年代以前の医師の言葉と、現在の手技療法家では、言葉の重みが違うのも、事実です。我々は、この時代の橋本敬三先生と同じ言葉の誘導をしていいわけがないのです。

 

それから、三浦寛先生の「ナチュラル・ボディがよみがえる」「操体臨床の要妙」「操体法大全集」「SOTAI in Madrid」もちょっとずつ見直してみました。

 

三浦先生にせよ、今とは言葉の誘導は微妙に変わっています。

それは、誘導が「からだの中心、腰」から「末端」、さらに変わったこともありますが、根底に流れるものは変わりません。

 

さらに驚くのは(これは実行委員の寺本君も言っていましたが)、「ナチュラル・ボディ」などは、ビデオから「快」が伝わってくることです。

操体法大全集」を撮った時、私も出ているので、ずっと立ち合いましたが、最後のほうは、スタジオが「快」で満たされて、意識が朦朧としたのを覚えています。

 

フォーラムで足趾の操法のデモとかやった時にいらした方はお分かりになるかと思いますが、会場に「快」の空気が溢れるとか、操体の臨床に立ち合うと、快の波動で自分も眠くなるとか、からだが反応するとか、あの感じです。

 

また、フォーラム(今回もzoomです)では、今まで撮りためたなかの傑作選も流す予定です。