操体法大辞典

操体の専門家による、操体の最新情報など

2021年と「東京操体フォーラム実行委員ブログ」

あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願い申し上げます。

 

東京は、本日快晴。良い天気に恵まれました。

 

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今日は午前中豊川稲荷に吉祥札を頂きに行き、帰りに往診の初仕事でした。

 

 

さて、先週の日曜から、東京操体フォーラム実行委員ブログで、一週間私が書いています。

テーマは「私の操体ズッコケ体験」です。

 

blog.tokyo-sotai.com

 

まずは三日分まとめてお送り致します。

写真も貼ってあるので、写真をご覧になりたい場合は、リンクからどうぞ。

****

初日

こんにちは。畠山裕美です。
今回は「私のズッコケ操体体験」ということで(すいません。発案者は私です)、お送り致します。

まず、最初に操体関係でずっこけたと言えば、高校二年の時、別冊宝島「東洋体育の本」を読んだ時です。
私はすでにその頃、足裏反射とか、エドガー・ケイシーとか、太極拳とか気功とか、ヨガとか、手技療法ワールドに足を突っ込んでいました。ムーとかも読んでましたね(って、今と大して変わりません)。


東洋体育の本 (別冊 宝島)

東洋体育の本 (別冊 宝島)

メディア: ムック

 


私は中学から大学まで、某女子大付属の学校に通っていたのですが、とにかく本を読んでいました。
「学内で年間一番本を借りた人」になったこともあります。
本と言っても、何でも読む派で、マンガはもとより、ミュージック・ライフとかロックショウとか、図書館にあったアメリカのティーン向けの雑誌から、池波正太郎から、とにかく何でも読んでいたような気がします。図書館は、最後のあたりは「棚の端から読む」とかやっていました。

というのは、今のようにネットがなかったので、情報源が限られていたこともあるのかなと。

また、昔は今のように、テレビが一家に複数台あることは珍しく、チャンネル権は両親にあり、私はテレビと言えば、時代劇か、洋楽番組か、親が寝てから(爆)「必殺」シリーズや「チャーリーズ・エンジェル」とか(今と趣味が全く変わっていないことに今更驚愕)見ていました。テレビよりも本だったのです。

また、今もありますが popeye というのがありますね。今は若者向けファッションマガジンですが、昔は、「アメリカ西海岸のカルチャーを紹介」的な雑誌でした。何故、知ったかというと、KISSのポール・スタンレイがpopeyeの創刊号を持っている写真を見たからです。
今でもそうですが、ポールのファンの私は「すわ、ポールが持ってるなら買わなきゃ」とpopeye誌を買いました。そうなると「宝島」とかも買うわけですね。糸井重里さんとか、あの辺りが活躍していました。

別冊宝島」は文章型部ムックというか、一冊一テーマというのが特徴です。

私はその前からヨガの研究と独習(どんな高校生だ)をしており、太極拳にも興味があったので「東洋体育の本」を手にとったわけです。そこで見たのが、気功家の津村喬氏が書いていた、操体法についての説明でした。
数ページくらいの短いコラムで、イラストで「基本運動」が紹介されていました。

最初の私の印象は「じじくせ~」「抹香くさ」でした(すいません)。
(また、津村氏が100キロ越える巨漢だったことを知っていたことも関係しているかもしれません)

もしかすると、「東洋体育の本」の、操体法についてのコーナーを、三浦先生が書いていたら、操体法についての世の中のイメージは少し変わっていたかもしれません。

若い頃は、昔なら沖雅也、今なら岡田将生似だったからです(笑)
NHKの朝ドラ「なつぞら」を見た人からの情報です。。)

私も、もし「東洋体育の本」に、三浦先生の写真が載っていたら「じじくせ~」とは思わなかったでしょう。

次に私が操体に出会うのは「操体法治療室」です。


操体法治療室―からだの感覚にゆだねる

操体法治療室―からだの感覚にゆだねる

作者:寛, 三浦,昭宏, 今
メディア: 単行本

 


表紙裏に、おじいちゃん(橋本先生)を囲んで、若者が二人写っていました。
それが、今先生と三浦先生です。

この辺りが、ずっこけどころです。


二日目

私が最初に操体を習ったのは、三浦先生ではありませんでした(岡村さんしかりですが、他の操体を知っているからという利点もありましたし、操体の色々な面をみることが出来ました。これも大事な修業の一環だったと思っています)。

当時通っていた整体の学校(秋葉原)の通学路に「操体法」という大きな看板を出しているところがあったり(津田温古堂)、学校でも操体法の特別授業があったりして、わりと勉強には良い環境にありました。

私は当時「操体法治療室」は読んでいたものの、秋葉原の「津田温古堂」には行く気にならず(毎日前を通っているのにね)、三浦先生に連絡しようかと色々考えている時に、その学校で操体法の特別講義が開催されることを知り、早速申し込みました。

この時、教えてくれた先生はK先生と言いましたが、熱心な先生で、仙台の温古堂に行ってみたりしていたそうです。

後で聞いたところ、三浦先生のところに行って治療を受けたそうですが(勿論どんなことをやるのか偵察)、渦状波を受けて寝てしまい、気がついたら寝ていて何をされたのかわからず、という話でした。

この先生の勧めで、橋本敬三先生の本を熟読し、教えて頂いた「いわゆる基礎」と「応用(連動操体っぽいもの)」を修練しました。私の場合、実際に人様のからだを借りて練習を積むことができたので、K先生に習ったことは、ほぼ完璧に再現できるようになりました。

この時私が習得したのは、「快方向に導く」とはいうものの、やっぱり後で考えると、二者択一の楽な動きだったんだなあ、と思いますが、ピンポイントで痛みを取るとか、即効性はものすごくありました。

そこから開業までは省きますが、当時「オンナが院長の操体専門?」だからどうか知りませんが、結構「お手並み拝見」とか「道場破り?」っぽい感じでやってきて、その即効性に驚いて「教えてください!」ということになった人が結構いました。

というわけで、私は三浦先生に操体を学ぶ前に、自分で講習を持ち、また、1998年には既にHPを持っており、操体ポータルサイト的な情報を流していたので、書籍を書く幸運にも恵まれたのでした。


結局は、三浦先生の臨床を目の当たりにして「快を問いかける操体臨床とはこういうものだ」と、ズッコケた挙げ句、目からウロコが落ちまくり「痛みがとれるとか、即効性があるのがいいわけではないよね、と、こちらは10年以上封印していました(後に、D1'として、甦らせました)。

 

三日目その後「私のHPで三浦先生の本を紹介させて頂いても宜しいでしょうか」という手紙を三浦先生に送ったところ、丁寧なお返事を頂きました。

その後、1999年の全国操体バランス運動研究会東京大会でお世話になり、東京操体フォーラムを設立しました。

初期は、三浦先生と私の他にも色々な先生がいましたが、何せ皆社長なので、全くまとまりがつかなかったのですが、私はこの間に、三浦先生の実技を見て

「今まで自分がやっていたのは『快』と言いつつ、実は楽か辛いかだったのだ」

ということに、愕然としました。

そして、当初?の予定通り、三浦先生に改めて弟子入りしたいと思ったのですが、当時の私はすでに受講生はじめ一門を抱えており、当時のパートナー(私の影響で操体をはじめた)には、猛反対されました。

その時の私の悩みは

私が院長であり、私のほうが先に操体の勉強を始めたのに、どうして『何でダンナさんが院長じゃないの?』とか『ご主人のマネして操体をはじめたの?』とか『○○さんの奥さん』と言われるのが、めちゃくちゃ苦痛だったのです(笑)

「三浦先生の講習に参加するなんて、絶対に許さない」とも言われたのも我慢できませんでした。

なので、離婚届けを書いて、母にもハンコを押して貰って「ハタケヤマに戻ります」と言いました。(かなり割愛していますが、背後に壮大なドラマを想像してください笑)


損か得か
正しいか正しくないか、
で考えたら、損だし、正しくないといった方がいいんでしょうが、

私は「原始感覚」に従ったということです。

「このまま相手の言うことを聞いて、一生我慢するつもりか?」という、自分自身への問いかけに答えを出したということです。

多分、そのままだったら、精神を病んで死んでいたような気もする(原始感覚です)のです。

それが8月。私は9月から開講の、三浦先生の定例講習に参加したのでした。

また、操体には、それだけ自分の情熱をかける価値があることもわかっていました。


その前から「塾SOTAI」に来ていいよ、と三浦先生には言われていたので、何回か参加させていただきましたが、そこ(塾)で出会ったのが、半蔵さんと岡村さんでした。

それから2年後、三浦先生と私とで、定例講習とは別に、プロ向けの「臨床講座」というのを開催しましたが、その第一期生として入って来たのが友松さんです(先週のブログ参照。テープレコーダーを回していたのは私です)。

こうやって考えると、今、フォーラムの実行委員をやってる人は、かなり「ふるい」にかけられた、厳選されたメンバーだということがわかります。

その後、改めて三浦先生と私とで、新生「東京操体フォーラム」を立ち上げたのです。

 

操体法のセルフケアの心構え(2)

追補になりますが、よく言われることがあります。

 

「自然体立位」や「般若身経」を指導した後に

「これ、起きてる間中ずっとやってなきゃいけないんですか?」

 

う~ん。

これも多分、根底を掘り下げると「損か得か」なんですね。

つまり「たくさんやったほうが効果があるのでは」です。

 

最初は「気がついたらやる」とか「操体のセルフケアやってる時に気をつけてやる」程度で構いません。

 

やっているうちに、からだが習得して「自然にできる」ようになります。

この「自然にできるようになる」のが、一つの到達点になります。

 

欲張って、早くできるようになろうと、詰め込むと、折れたりすることになります。

 

もし、自分が「超欲張りだからなあ」と思うのであれば、「まあ、操体のセルフケアの時くらいは欲張るのやめよう。橋本敬三先生も『欲張るな』って言ってたし」と、橋本先生のアドバイスを思い出して下さい。

 

欲張りでもいいんです。操体のセルフケアの時は欲張らなければ。

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東京操体フォーラムの実行委員の皆さんも、最初は「自然体立位」をやっていても、側屈をやったらつま先が外を向いていた、とか、そんな時があったはずです。私もです。

 

それが、毎日ちょこちょことやっていて(ここがポイントですが、終日ずっとやっていようと思うとストレスになります。集中した時だけやればOK)、ある時気がついたら、意識しなくても普通にできていたのです。

 

(1)でも書きましたが、最初は「操体のセルフケアをやるとき」だけで大丈夫です。

たまに「全ての生き方の中で『損得』『正しい正しくない』で暮らさないといけないんですか?」という方がいらっしゃいます。

真面目な方だと思うのですが、これも下には「やればやるほど効果があるんじゃないか」という「損得」が隠れていたりするのです。

べつに、全ての生き方の中でやる必要はありません。

しつこいですが、最初は、操体のセルフケアの時だけで大丈夫です。

 

自然に身についてくるのを待てば良いのです。

 

 

操体法のセルフケアの心構え(1)

少し前、操体のセルフケアの個人レッスンの時、受講生の方が、ある動診操法をためしてみて

 

「ちょっとしかきもちよくない」と言いました。

 

なるほど。

 

ちょっとしかきもちよくないのは、よくないことなのでしょうか。

ちょっとしかきもちよくない→損得で考えたら、損

すごくきもちいい→損特で考えたら、得

 

なのかも?

 

操体法を勉強している人ならば、一度は「がんばるな、よくばるな、しばるな」という

「バルの戒め」という言葉を聞いたことがあるかもしれません(いや、操体勉強してたら、これを知らないでは済まされません)。

 

この中の「よくばるな」は、いわば「感覚の分析を損得勘定でやるな」ということだと思います。

 

そして、何故「ちょっとしかきもちよくない」のでしょう。

それは、バランスがとれているからかもしれないし、今のアナタには必要のないことだからかもしれないのです。

 

あとは、損得勘定でみると「(わたしが)ちょっとしか気持ちよくない」のですが、損得勘定抜きで「ちょっときもちよさがききわけられる」と言い方を変えてみるのです。

しつこいですが、主役は「からだ」です。

 

「あ!ちょっとだけど(からだに)ききわけられた!」って言うと、何だかからだがかわいく思えてきませんか?

 

やった~、からだ、すごいね!みたいな。

 

この「やった~!からだ、すごいね」、という感じが掴めれば、操体法のキモを理解したも同然です。

 

操体は常に「からだ」が主役だということです。

「ちょっとしかきもちよくない」のは、誰でしょう。

それは「わたし」です。

 

「わたし」はアタマが働くので「損か得か」とか「正しいか正しくないか」と、考えるのが大好きです。

 

なので「ちょっとしかきもちよくないんだったら、損だな」とか、「左右両方均等にやるのが正しい」と、考えます。

 

しかし「からだ」は「原始感覚」、つまり「快か不快か」(好きかきらいか)で選択します。

 

他の時はいいので、操体のセルフケアをやっているときだけは「損か得か」「正しいか、間違っているか」ではなく「それは、からだにとって快か不快か」で、ためしてみるのです。

「からだ」が主役なので、ゆっくり動きを表現しながら(動く、と言わずに表現する、と言うと、ゆっくり表現できます)、よ~く感覚をききわけてみます。

 

1.きもちよさがききわけられる場合

そこで「あ、これってきもちいい」と感覚できたら、「からだに」「これ、味わってみたい要求ってある?」と問いかけてみます。

そこで「うん、味わってみたい」と、からだが返事すれば、そのまま快を味わっていればいいのです。

 

2.よくわからない場合

そして「う~ん、わかんない」となっても大丈夫。ここがポイントです。

痛いとか不快であるとか、イヤだ!という感じがなければ「このまま続けてもいい?」と、からだに問いかけてみます。

「いいよ」という答えが返って来たら、すこし試してみて、抜きたくなったら脱力すればいいだけの話です。

 

3.イタきもちいい場合

これも、からだにききわけて、「続けてもいいよ」という答えが返ってくれば。続けてみて、抜きたくなった脱力すればいいのです

 

つまり、どのような場合でも「からだ」に問いかけるのです。

 

操体では「からだ」が主役です。

「からだの声を聞く」という話はよく聞きますが、ここまで徹底して「からだにききわける」のは、操体法だけではないかと思います。

 

主語が「からだ」@操体

「からだにききわける」ということで「からだ」

 

主語が「わたし」「アタマ」@操体以外

「(私が)きもちよさを探す」「(私が)きもちよさを探して色々動いてみる」

 

なのです。

 

例えばあなたが「自分でセルフケアできたら得(医療費とか)じゃん!」と思って操体を勉強してもいいのです。

その時は損特でもいいんです。主役は「私」だから。

 

しかし、実際に動診操法を行う時は「からだ」を主役にすることです。

 

いいですか、

 

他の時(仕事とか日常生活とか)では、損特正しい正しくないでもいいんです。「私」が主役なんですから。

(快不快の話をすると、仕事や日常でも主役はからだで、損特とか正しいとか正しくないで動いてはいけないんですか、と言う人がいたりしますが、それは違います)

 

大昔、全国操体バランス運動研究会で「私は赤信号でも渡りたかったら渡る」言った人がいました。

これは、あきらかに「主役」は「自分」です。

車にひかれても仕方ないのです。赤信号の時は渡らない、というのは、社会的なルールですから。

 

しか~し、操体のセルフケアをやる時だけは「主役は、からだ」なのです

 

 

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Big Sur対応Onyxリリースされました。

こんにちは。畠山です。

 

私は1994年に、Performaを買ってからのMacユーザなんですが、途中、猫も杓子もWindows95(当時は、何だか分からずにディスクを買った人が、CDプレイヤーに入れて再生して、CDプレイヤーをぶっ壊すという事件が頻発しました)の時代にも負けず(会社ではWindows使ってたけど)、ジョブズがたった一度、Mac Expo Japanで基調講演した時は、初代iMac (ボンダイ・ブルーのヤツね)を買って、抽選に応募して、見事参加権利をゲットして幕張メッセで「生ジョブズの基調講演」を聞いたというMac好きです。

あれは、感動的でした。。。

探したらあったので貼っておきます。そういやすごく並んだなぁ。

ascii.jp

当然ですが、iPhoneユーザだし、時計もApple Watchです。iPadも勿論数台持ってます。しかし、何故か原稿を書く時は、キーボードをバンバン叩けるほう(打鍵感?)があるほうが書きやすいので、Windowsも使ってます。長年両方使ってるので(デスクにWindowsMacが両方ある)、切替も瞬時にできます。

 

それはさておき、先月(2020年11月)、MacのOSがX(テン)になってから以来の、メジャーアップデートがありました。TenからElevenです。

 

ちなみに、私は今年の6月に、Macbook Proを買いました。

Macって普通起動時に「ジャーン」って鳴るんですが(これが鳴らないとなんだか気持ち悪い笑)、Macbook Proは鳴らないヤツがあるんです。カバーを開けると自動的に起動してくれるんですね。

そしてやはり「鳴らせたい」という人はいるようで、色々な小細工がネットで紹介されていました。しかし、私のは「小細工しても鳴らないやつ」だったのです。

www.itmedia.co.jp

上の記事には「この音に関するドラマはもう生まれないのか」とあります。

 

私以外にも「ジャーン」(ビートルズの曲に由来する)が好きな人は世界中にいるんだろうな、と思っていたら

 

Big Surにアップデートしたら、復活しました。

私は勿論素直に喜びました。

iphone-mania.jp

やっぱり、世界中にアレがないと、どうもMac使ってる気がしないよね、と言う人がいるのでしょう。一方「起動音を消したい」人もいるようです。まあ、お好みってことで。

 

そして、Mac用メンテソフト(無料というのがすごい)のOnyXのBig Sur対応版がついにリリースされました。

www.titanium-software.fr

OnyX 3.9.1 for macOS Big Sur 11
Requirements: Mac Intel computer running macOS Big Sur 11.

インテル版)

 

 

新型のコロナ感染症予防対策についての共同宣言(シェア)

この宣言の中には、私が「なるほど」と思うお医者様が二人、含まれています。

 

吉野先生と、矢作先生です。

 

吉野敏明先生は、塩沼亮潤大阿闍梨様の主治医でもあります。また、何代も続く鍼灸師の家系のお生まれです。


また、現在矢作直樹先生が著書で書いていらっしゃることは、橋本敬三先生がおっしゃっていたことと、共通点が多いのです。

 

新型のコロナ感染症予防対策についての共同宣言 | WeRise

www.werise.tokyo

 

 

操体法は、実はオンラインに向いている

先日、いつも操体の施術を受けて下さっている美容師T兄のお店に行って、パーマをかけてきました。

 

 

彼はいつも、足趾の操法®を受けて「左脳とばし」(という二人以上で行うものがあります。文字通り、きもちよさでぶっ飛びます)を受けており、目を閉じていると、鮮やかな色や光が見えたりする「かなり上級の」クライアントでもあります。

 

そこで操体法のオンライン講座をやった」という話をしたところ、

 

「えっ?そうなの」という答えが返ってきました。

なるほど、T兄はいつも「足趾」とか「左脳とばし」を受けているので、「操体のセルフケア」をやるという感覚が希薄(きはく)なのかな、と思いました。

 

橋本敬三先生の時代は、当然ながら診療所で操体の臨床をやっていたわけですし、医者と患者という間ですから、先生が患者を治療するというスタンスです(わら半紙に印刷した『般若身経』を配って、家でやりなさい、という指導はあり)。


操者がいて、被験者に動診操法を行う。これが基本でした(一対一)。

 

そして、三浦先生が東京で開業し、しばらく経ってから、二子玉にあったカルチャー系のスタジオから「操体法を指導してくれないか」というオファーがあったんだそうです。

 

いわゆる、スタジオですから、何人もの生徒さんが集まります。

いままで一対一での臨床しかやっていなかったので、三浦先生も、最初はどうしようかと頭を捻ったそうですが、そうか、口頭で指導すればいいんだ、と思いついたのだそうです。
この教室は大人気で、最初一時間だったものが二時間になり、結構長いこと続いたそうです。

 

興味深かったのは、生徒さんから三浦先生に「家でもやりたいので、先生の声を録音してもらえませんか」というリクエストがあり、「言葉の誘導」を録音したこともあるそうです。


そして、これが操体法の面白いところなのですが、映像を見ながら実践すると、感覚分析がおろそかになります。見ながらだと、そっちに意識が向いてしまい「からだの声」をききわけにくくなります。また、目を閉じて行ったほうがいいのです。「感覚」に意識を向けられますから。

 

目を開けていると、意識せずとも莫大な量の情報が入ってきます。それを一旦遮断するのも、感覚の勉強の一つです。

 

なので、目を閉じている時に「言葉の誘導」をききながら、というのは、「モード」に入りやすいのです。

 


最初に見る。見て、アタマの中で。ありありと想像できるくらいまでだとなお良し。
それから、指導者の言葉の誘導に合わせる。

 

これが、操体のセルフケアのベストウェイだと思います。

体操のように一緒にやるのは、視覚が優位になり、目からの情報が多すぎて「からだの感覚」をキャッチしづらくなります。

 

 

「言葉による誘導」。これは実際に指導をやってみるとわかりますが、人は、なかなか自分の思い通りには動いてくれません。

さらに、個々人の感覚を重要視して、それぞれのペースでセルフケアの操体を行って貰うには、誘導のコツがあります。

 

実は「操体法を口頭で不特定多数に指導する」のは、一番上級の指導テクニックなのです。

 

普段の操体臨床でも「言葉の誘導」は非常に大事です。
皆さん、操体の臨床は「操法を覚えれば」いいと思っているかもしれませんが「被験者の『からだ』との対話法」を抜くわけにはいかないのです(これは、非言語的なものも含みます)。

 

私自身は、以前朝日カルチャーセンターで教室を持っていた時に、かなり鍛えられました。

 

また、スペインのセミナーで、100名近くに通訳を介して般若身経を指導した際も、かなり鍛えられました。

 

それが役にたった事があります。

それは、写真の学校に行っていた時のこと。フォトグラファーは、時にモデルさんに声をかけて、ポージングをしてもらう場合があります。

 

私は操体法の指導で慣れていたので、すぐ出来ましたが、先生からも「ポージングの指導、慣れてるね」と言われました。
モデルには、わかりやすく正確な情報を伝えなければなりません。

 

なお、我々はこの「言葉の誘導」をじっくり勉強します。
それも「本人にではなく、からだにダイレクトに響くもの」をです。

「教えました」「はい、今日からできます」というものではなく、ギターのFコードのように、最初はどんなにしっかり押さえても音が鳴らないのに、ある日、ほんの軽く触れているのに「ジャーン」という音がでるようなもの(これを「Fコードの法則」と言います)です。

 

そして、思い出しました。私が開業して間もない頃のこと。

クライアント(30代女性)から、夜電話がかかってきました。
動いた拍子に「ぎっくり」やってしまったそうです。

幸いに、からだの向きは変えたりすることができるので、ダメもとで、口頭で動きを伝えてみました。からだが覚えているかもしれないと、彼女が受けたことのある動診で、シンプルなものを選んだのです。

およそ10分くらい電話で色々伝えていたでしょうか。
取り敢えずは痛みがおさまったとのことでした。


翌日メールが来ましたが、痛みが再発もせず、調子もよいとのこと。

 

もうひとつ。これは東京から関西に引っ越していったクライアント(20代女性)から電話がありました。転んで膝を捻ってしまい、痛くて歩けないのだそうです。

この時は、私の指示に従って、少し足を動かして(痛むところは動かさないように)もらい、呼吸とか目線も用いてもらった記憶がありますが、電話の途中で

「あれ?先生、膝、入ったみたい。今音がしました」という訴えがあり、「あれ?痛みがすごく薄らいできました」というので、感心したことがあります。


つまり、橋本敬三先生がおっしゃる「整復コース」に乗せれば、口頭での指導でも、操体臨床は可能だということです。

 

というわけで「言葉の誘導」があるお陰で、操体法はオンラインでの指導に向いていることを改めて感じています。

 

今までも内々では、オンラインでの講義などはやっているのですが、般若身経や、セルフケアなどについては発信していく予定です。

 

 

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原始感覚を目覚めさせてから「快」へ

すごく昔の操体法の本を読んだ人が、

「もう、瞬間的に全部変わるの!」くらいの大期待をして来られることがあります。

 

確かに、私も今までに何件か「えっ?」と思う程の変化を見たことがありますし、三浦先生のところでは、行きは車椅子でやってきて、帰りは歩いて帰った患者さんの姿を何度も見たこともあります。

 

しかし、大抵は「息食動想+環境」のバランスを崩して、時間をかけて、からだを壊しているのだから、そんなに劇的な変化を求めるのは性急というものです。

 

以前、三浦先生のところに、図書館で借りたという「操体法治療室」を持った若い男性が来ており(私は後ろで見ていた)

 

至高体験がしたいんです』と、言っているのを聞きました。

 

私が想像するに「快」→「至高体験」みたいなことを考えていたのでしょう。

実際、渦状波®で、至高体験(宗教的エクスタシーっぽい人を見たことがあります)が、これは、その人の体質や感受性にもよる(被暗示性とか)でしょう。

 

かといって、いきなり治療室にやってきて、治療も受けずに?至高体験したいと言ってもねえ。

 

結局その人はお茶を飲んで帰ったような記憶があります。

 

そして「きもちよさがわからない」「すごい変化がない」と言って「自分は操体に向いてないんじゃ」という人がいます。

 

これは、操者の指導の問題も勿論ありますが、「すごい期待」をしていらっしゃる方もいるんだな、と感じる事があります。

 

この話題は三年に一度くらいは私の前で起こるので、そろそろこの時期かな、と思ったりもします。

 

それは「快」に関する、過度な期待です。

 

大前提として、操体で言う快とは、生活や世界の中に存在する大きなくくりの「快」ではなく操体臨床時に、からだがききわけ、味わってみたい要求を満たす快」ということです。

 

「きもちいいなら何でもいい」とか「快は全て操体だ」というような乱暴なカテゴライズではありません。

 

また出すのは気が引けますが、その昔「人を殺すのが快だ。快楽殺人も快ならば、どうなんだ」という変な人がいました。橋本敬三先生もおっしゃっていますが、人に迷惑をかけたり、過度にならないのが鉄則です。快楽殺人というのは、あきらかに人に迷惑というか、犯罪です。

 

最初に行っておきますと、操体で味わうことができる快は、我々が「憶の快」と呼んでいるものです。性的な快とは異なります。

 

このあたりは、アタマで考えずに、体験して体感していただくのが、早道です。

 

「考えるな。感じろ」by ブルース・リー

 

一方、快を識別するには「快か不快か」を選ぶ力「原始感覚」が必須です。

現代人は「正しい・正しくない」「損か得か」という選択肢で生きているのと、アタマを使いすぎて「原始感覚」が鈍っています。

 

例えば、自分の舌よりも、ネットの「○○ログ」を信用したり、並んでいるお店だから並んでみたり、というように、自分で「快不快(好きかきらいか)を選ぶチャンスが減っているのです。

 

なので、本来ならば、快適感覚のききわけにすぐ入りたいのですが、そもそも「原始感覚(快か不快かききわけるちから)」が鈍っているので、それを甦らせる必要があります。

 

原始感覚を蘇らせる一番の方法は何かというと「快を味わう」ことです。

 

私自身は、これに一番マッチしているのが「足趾の操法」だと思っています。

 

初診のクライアントの場合、カチカチに緊張しているとか、本人が気がついていなくても、全身が緊張している場合が多いのです。

このような場合は、操法を行っても、こちらが意図した通りにはいかなかったりします。

 

例えば、つま先をすねに向けて反らせて、それから脱力(急速脱力ではない)を促しても、力がはいったままであるとか、膝を傾倒させて、力を抜かせても抜けない(瞬間急速脱力ではない)、本当は全部抜いて欲しいのですが、ピョコン!と両膝を真ん中に戻してしまうとか「緊張」が操法の進行を妨げることがあります。

 

なので、緊張が強いとか、初回は、足趾の操法など、比較的操者がアプローチするものからはじめ、緊張をほどいて、原始感覚を蘇らせることからはじめなければなりません。

 

ところが、アタマで考える人は「いっかい受けたけど、よくわかんない」と言ったりします。

 

この「アタマで考える」のを吹っ飛ばすのが「左脳とばし」です。

これは、かなりぶっ飛びますが、一人だけ、施術の最中ずーっと喋っていて、たまに意識が飛ぶのですが、あとで「きもちよさってよくわかりませんでしたー」という人はいました。

 

「本人」は気がついていなくても「からだ」は、反応しているのです。

アメリカの医療ドラマで「患者はウソをつく」という決まり文句があるそうですが、「からだはウソをつかない」のです。

 

操体臨床における快」というのは、感覚ですから、学習する必要があります。

 

最初から「失神するくらいの快」を期待してはいけません(笑)。
「処○なのにめちゃくちゃ○度が良くて初○○から○じまくり」とか、「失神するくらいのめくるめく快感」は、映画とか本とかの中のお話です。

この話をすると笑われますが、実際にこういう期待をしてくる人がいるのです。

 

実際、初めて受けて宗教的エクスタシー、みたいな人もいますが、数としては非常に少ないことです。

 

しかし、最初から「エクスタシー」にいかないからと言って「私に操体は合ってない」というのは性急すぎるというものです。

それはあまりにも残念です。
「失神するような快感を得られなかったので、私には向いてない」というくらい(あ、笑ってます?でもホントなんですよ)なんです。

 

また、これも面白いのですが
「きもちいいけど、ちょっとしかきもちよくない」という人もいます。
人間、きもちよさに対しては、あまり寛容ではないというか「めちゃくちゃきもちいい」とか「失神するほどきもちいい」レベルでないと認めて貰えないのでしょうか。
裏を返せば「快」に対する期待が高いのかもしれません。

 

面白いのは、足趾の操法の反応です。

 

最初「なんともないです」

だんだん「きもちいいけど、ものすごくきもちいいわけじゃないです」

2ラウンド目「ぐ~」(寝ている)

3ラウンド目「すんごくきもちいいです~」

同じ「足指をもむ」でも、1ラウンド目と2ラウンド目では、感覚が違うんです。

そして、これは不思議なのですが、足趾は1ラウンド目よりも2ラウンド目、2ラウンド目よりも3ラウンド目、というように、回数を重ね、快を味わえば味わうほど、きもちよさの質が高くなってくるのです。

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