操体法大辞典

操体の専門家による、操体の最新情報など

息を吐きながら?

先日「操体の施術+ベーシック講習」を受けに来られた方がいらっしゃいまして、色々お話を伺いました。

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この講習ですが、施術を受けることができて、なおかつ操体の基礎をレクチャーし、その人に合わせたセルフケアのメニューを組み立てるという、当方一番の人気メニューです。

 

いらっしゃる方に伺うと、多いのが

「本を読んだけどわからない」

「ならったけどわからない」

「きもちよさっていうのがわからない」

 

というのがベスト3に挙がります。

 

この方に聞いてみたところ。数年前に、あるところで操体法を習ったのだそうです。

まあ、第一分析時代のものですから、瞬間脱力は当然と言えば当然ですが、私が気になったのは

「きもちよ~く、自由に好きに動いてください」と

「きもちよさを探して(動いて)」というようなニュアンスだったようです。

 

★私が「ダメ」だといっている2例です。

「きもちよ~く、自由に好きに動いてください」と

「きもちよさを探して(動いて)」と言ってる操体指導者は、勉強が足りません。
何が足りないかというと「楽と快の違い」を分かっていないんです。

 

「これが何でダメなんですか」と聞かれました。そりゃそうです。

その方は、ずっとそれが正しいと思ってやってきたのですから。

 

考えてみてください。

私などは、這うようにしてやってくる人に操体の施術をしたり、ギックリ腰になった方の所へ行ったりするわけです。

辛くて苦しくて動けない人に

「きもちよ~く、自由に好きに動いて下さい」なんて言えますか(笑)

言ったら、怒られちゃいます。

 

つまり「きもちよ~く、自由に好きに動いてください」と言ってるような人は、体操の指導をしているとか、動けるような元気な人しか診てないんです。

 

あと、きもちよさは、探してもみつかりにくいです。

 

これは、やってみればわかります。

 

未だに「楽な方にきもちよく~」と言ってる人は、果たして「楽イコール快なのか」と、自分のからだで試してみて下さい。

数年前、大阪で、操体をやっているマダーム達に三浦先生が質問した際、

「きもちよさが分かる人」では、挙手2名でしたが、「楽か辛いかが分かる人」と聞いたら、会場の殆どが挙手しました。

 

これは、指導者が「楽な方に気持ちよく~」と言っていても、実は習っている方は「楽か辛いかはわかるけど、きもちいいかっていうとよくわかんないけど、まあいいわ~」という感じで、スルーされてきたんだと思います。

 

また「きもちよ~く、自由に好きに動いてください」というのは、実は、第二分析の言葉のパクリなんですが、

そもそも第二分析では「きもちのよさが確認できてから(つまり診断分析をしてから)、はじめて「きもちよさに委ねて」と進めていきます。

 

きもちよさをききわける前に「きもちよ~く、自由に好きに動いてください」なんて言いません。これは「診断/分析」をすっ飛ばしていきなり「操法/治療」に行っているのです。

 

操体操体法で「快」を扱う場合は、必ず「診断分析」(快的感覚の有無を確認し、そのきもちのよさを味わって見たいというからだの要求感覚を確認し、確認がとれたら)はじめて、

「そのきもちのよさを味わって」と、持って行くわけです。

 

ちなみに、タイトルの「息を吐きながら」ですが、その方は、息を吐きながら動いて、三秒後に息を吐きながら、脱力、と習ったとのことでした。

 

しか~し、なんで息を吐きながら、なのでしょうか。

これには理由があります(知ってます?私は、三浦先生からその理由を教えてもらいました)。

 

また、私達は現在、息を吐きながら動く、ということは、やっていません。

そもそも、橋本敬三先生の卒寿のお祝いの席で「呼吸は自然呼吸でいい(呼吸に集中すると、感覚がききわけられなくなるから)」と、橋本敬三先生ご自身が「自然呼吸でいい」とおっしゃっているわけです。

 

なので、吐きながら動くとか、吐きながら脱力する、以外にも道はあるわけです。

 

さて、20世紀までは、自然呼吸でも良かったのです。

しかし、この20年間で、世界は大きく変わりましたよね。

 

自然呼吸にプラスαが必要な時代になってきたのです。

(私自身、それを操体法東京研究会で学んでいます)

 

操体の原理原則は変わりませんが、社会的環境が変わり、人間の生活様式や、ストレスの度合いが変わってくれば、操体もそれに沿った進化が必要です。

 

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何だか美しい卵かけごはんの写真が撮れたので。

 

HOKUSAI

東京の映画館が、6月1日からやっと開館になりました。

この前映画を観に行ったのはいつかというと、3月の「エヴァンゲリオン」でした。

二ヶ月以上も映画館に行かない、なんていうのはあまりないのですが、これもコロナ禍のためですね。


また、映画のチケットを予約するにしても、今現在では「当日分」しか予約できません。早く普通に映画鑑賞ができる日が来て欲しいものです。

 

さて、公開延期になっていた「HOKUSAI」を観てきました(久しぶりに六本木に行きましたが、映画館に行って帰って来ただけでした。今度は香妃園の鶏そば食べて帰ろう)。

映画『HOKUSAI』公式サイト 気持ちを込めて公開中

www.hokusai2020.com

 

今は、コロナ禍で中断していますが、私自身、太田記念美術館(原宿にある、浮世絵専門の美術館)の年間会員だったくらい、浮世絵好きなんです。

 

 

そして、この時代は、蔦屋重三郎(蔦重)、滝沢馬琴(蔦重の下で番頭をやってた)、柳亭種彦喜多川歌麿東洲斎写楽葛飾北斎山東京伝歌川広重など(映画に登場するのは、蔦重、歌麿写楽、馬琴、種彦、北斎)、江戸後期の町人文化を代表する大スターが出た時代です。

 

なお、北斎は海外で「有名な日本人」に入っているそうです。

 

また、今回特筆すべきは、若き日の北斎柳楽優弥(どうしても土方十四郎を思い出す私笑)が演じ、晩年を田中泯さん(みんさんは、さんづけしちゃいます)が、演じています。

そして蔦重は阿部寛(この方はヅラものも似合いますね。「のみとり侍」もよかったし)。

 

北斎は色々なエピソードがある人ですが、今回は「引っ越し魔だった」とか(一説によると、弾圧から逃げるためだったとか)、北斎漫画(今見てもキュートすぎる)とか、有名な(私は現物を「春画展」で見ました)「蛸と海女」とか、娘のお栄を「おーい」と呼んでたので、お栄の雅号が「葛飾於為(おうい)」になったとか、そういうのは出てきません。

 

ここで出てくるのが「天保の改革」です。

簡単に言えば「町人文化が花開き、それをけしからん、とした幕府(水野忠邦)があーとやアーティストをを弾圧した」というもの。

 

映画のしょっぱなで、蔦重の店、耕書堂が役人達に押し入られ、本や絵が焼かれたりします。また、当時は「本の装丁が華美」ということで、処罰されたんだそうです。

 

もしかすると、町人が本を読んだりすると、過激な思想にかぶれるとか、華美な服装や、華美なものはけしからん、みたいな感じだったのでは、と思います。

「自分より下の者が、華美なものを纏ったり、華美なものを持ったりするなんて、けしからん」って、思い切り「嫉妬」のシステムです。

 

今、コロナ禍を理由に、映画館閉めろとか、デパート閉めろとか、そのうち「灯火管制」とか「贅沢は敵だ」とか言う人が出てきたらどうしようかと心配したりしちゃいますが・・。

 

今回クローズアップされているのは、あの「HOKUSAI BLUE」と言われている青い色です。

 

途中で、田中泯さん演ずる北斎が、顔料の入った器を湿らせ、頭から青い顔料を被る、といシーンがありますが(途中から、北斎田中泯さんにしか見えなくなってきて困った)、あの色を使った波や、赤富士のエピソードや、風に吹かれてものが吹っ飛んで慌てている市中の人々を描いたものとか、有名な作品のエピソードが出て来ます。

 

いや~、見て良かったです。

是非大画面で、北斎・ブルーを愉しんでください。

 

なお、蛸と海女(しつこい笑)は出てきませんので、ご家族でご覧になっても全く問題ありません(笑)。

 

で、何故か見おわったら、「銀魂」(実写版)を見たくなったのは、多分、柳楽優弥のせいです(笑)。とくに「銀魂2」だな。

 

蛇足ですが、最近大河ドラマを見ても「銀魂」を思い出してしまう私です。

 

「アタマ」と「からだ」は違う、と操体は考える。

操体法を指導していて、たまに「これはちゃんと伝えないとなあ」と思う事があります。

 

それは、操体操体法において、きもちのよさや、感覚をききわけるのは、「被験者(私)」ではなく、「からだ」であるということです。

 

この話をすると「?」と言う顔をされることがありますが、よく「目が食べたい」という話を聞いた事があるでしょうか。

英語では”My eyes are bigger than my stomach.”(私の目は私の胃袋よりも大きい)という言い方があるそうですが、おなかは一杯なのに、目が食べたい、ということです。

 

からだの本音(おなか一杯だよ)に対し、脳(目というか欲)は(美味しそうだな、おなか一杯だけど食べちゃおうかな)となることです。

 

操法で言えば、操体法は、比較対称した場合、やりやすい方を選択します。この話をすると「反対側はやらなくていいんですか」と言われることがあります。

「左右まんべんなくやったほうがいい」「やりにくい方を多くやったほうがいい」「やる回数は多いほうがいい」「操法の数は多い方がいい」

これらは、全て「アタマ」で考えた「損得勘定」です。

 

からだは「やりやすい方だけでいいよ」と言っているのに、アタマ(意識)は、

  • 左右まんべんなくやったほうがいい
  • やりにくい方もたくさんやった方がいい
  • やる回数は多いほうがいい
  • 操法の数は多い方がいい

と、考えるのです。

 

我々は、ここで「アタマ」ではなく「からだ」(先程の例で言えば、お腹がいっぱいなのに、目が欲張ってまだ食べたい、となっている状態)にアプローチするために、

  • 言葉の誘導

を用います。

例えば
「あなたはこれがきもちいいですか?」

「このきもちのよさ、からだにききわけられますか?」

という二つの問いかけがあります。前者は「あなた(アタマ)」に問いかけており、後者は「からだ」にききわけさせているのです。

 

アタマとは、損得勘定、正しいか、正しくないか、などで考えます。

からだは「快か不快か」(好きかきらいか)を選択します。

 

操体指導者は、この区別がしっかりできていないといけません。

この違いが分かっていないと「ちょっとしかきもちよくない」とか「これはきもちよくない」というように、きもちのよさ、快を大小で評価したりすることになります。

私はこの手の勘違いをしている人を数多く見てきました。

 

そう言う人は、結局「快」を「損得勘定」(多い少ない)でみているので、なかなかコアな部分にたどり着けないことが多いように感じます。

 

また、先日「身心一如」というものもある、という方もいました。

なので、「私とからだを分けるのか」というのです。

この場合ですが、私自身、厳密に言えば「こころ」「からだ」「自分」は、別のモノではあるけれど、密接に繋がっているという感じがあります。

 

身心一如というのは、当たり前と言えば当たり前ですが、ここでいう「心」は、どちらかと言えば「エゴ」や「アタマ」ではありません。

 

なので「身心一如」っていうから、ワタシのエゴもからだも同じでいいじゃん、とは思いません。

 

また、身体と精神は一体であって、分けることはできず、つのものの両面にすぎないという仏教の考え。 「身心」は、体と心のこと。 「心身(心と体)」ともいい、「しんじん」とも読む。 「一如」は、ただつであるさま。

 

本当は「からだ」「こころ」「アタマ(エゴ)」の3つがあるんだろうな、と考えています。

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2021年春のフォーラムが近づいてきました。

去年の春のフォーラムから、ネット配信に切り替えました。

非常事態宣言が出た時、仕方ないので借りていた会場をキャンセルすることになり、手探りでやったことを思い出します。

あれから一年、毎月の「東京操体フォーラム実行委員勉強会」も、仕事の関係などで三茶に参集できないメンバーは、zoomで参加しています。

二年前ならば「絶対web会議なんて縁がないだろう人」も、web会議やってますし、私も大学でのweb講義の手伝いとか、大規模会議やシンポのお手伝いとかを結構こなしたので、まあ普通?にこなせるようになりました。

 

それはさておき、4月29日(木)昭和の日、2021年春季東京操体フォーラムを開催致します’(webで)。

 

テーマは秋に引き続き「操体法クロニクルズ セルフケア」関係です。呼吸についてもやります。

 

www.tokyo-sotai.com

 

最近、私のところも「操体法の施術+ベーシック講習」に参加される方が増えており(こちらは、自力自動のセルフケアがメイン)、自分でケアできるところはケアして、免疫力を高めよう(操体法は、これにも一役買います)という機運が高まっているのではと思います。

 

もともと、操体法がブームになった当初は、仙台の橋本敬三先生のところに「医者から見放されたような患者さん」が来ていました。

ところが、それがいつからか「操体は自分でできる体操みたいなもの」という認識も持たれるようになっています。

 

これ、変ですよね。

 

・医者に見放された人が操体法を求めて仙台に来ていた(医師が関与する治療)
・しかし、現在操体法を健康体操とか養生法として見ている人もいる(養生法)

 

そんな、医者に見放されたような人が、自分でできる養生法をやってみて、治る、というのは普通に考えられませんし、もしそれが本当ならば、

 

操体法はもっとポピュラーになっているはずです。

 

この辺りのカラクリですが、

「専門家が、セルフケアできるようになるまで、ヘルプする」(専門家による)

「セルフケアできるようになったらセルフケアに」(自力自動のケア)

という、二段階がごっちゃになっているんです。

 

そして「正體術」の本にも書いてありますが、

  • 自分でもできます
  • しかし、それは、専門家に骨格の歪みを全て正して貰ってから

このように書かれています。

 

これは、操体法にも当てはまります。

  • 自分でもできます
  • しかし、まずは専門家にボディの歪みを調整してもらってから
  • なお、もともと健康で、問題がない人は、自力自動のセルフケアで、健康維持増進が保てます

 

ということですね。

つまりは、健康の度合いが40パーセントを切っているような方は、まずプロのケアを受けて、セルフケア(自力自療)ができるくらいになってから

 

なのです。

 

しかし、とは行ってもこのご時世、なかなか遠方まで足を運べません。

そこで「健康の度合いが低い方でも、負担なくできるような、セルフケアの補助になること」を、フォーラムでご紹介しようという次第です。

 

どうぞおたのしみに。

 

お申込期日が過ぎても、私にメール下されば何とかなるかもしれませんよ??

(私が事務局長なのです)

 

 

 

何故「本を読んでもわからない」のか?

GWは、4月29日(木)の、東京操体フォーラム以外は、基本的に営業しております。

施術はもとより、施術+ベーシック講習も開催します。

予定 をご覧下さいね。

 

うちの看板メニュー?が「施術+ベーシック講習」なのですが、施術とセルフケアの講習を合わせているところがミソです。

というのは、

 

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そもそも不思議な話なんですが、操体法がブレイクした当時(昭和50年代)、どうして操体が流行ったかというと「自分でできる」から流行ったのではなく、NHKで放映されたドキュメンタリーで、筋ジストロフィーの子供の歩き方が変わった(治ったわけではないですが、動きがスムースになった)ということが紹介されたということがあります。

橋本敬三先生の診療所、「温古堂」は仙台ですが、日本中から「医者に見放されたような人」が集まったのです。

 

私のクライアントにも、その昔難病にかかって、仙台を訪れたという方がいらっしゃいました(野口整体の本部から紹介された、とのことでした。昭和の時代は、交流があったそうです)。

 

おかしくないですか?

当時は「医者に見放された方々」が、操体を受けに仙台に行ったんです。

しかし、今は「操体は自分でできる」ということが知られています。

 

つまり「プロができる範疇」と「セルフケアの範疇」があるわけです。

 

操体法は養生法である」とか「健康体操である」という認識をしていると、
「医者に見放された人が操体を受けにいった」という話は結びつかないのではないかと思います。

 

これが「臨床家がやっている操体法」と「健康維持増進のための操体法」の違いです。

 

 

さて「操体法を自分でやりたい」という方に「何か本を読みました?」と聞くと、かなりの割合で「ひ○○で操体法」を読んだと聞きます。入手しやすいこともあるのでしょうが、大抵は「よくわからない」とおっしゃいます。

なぜ、よくわからないかというと、

 

  1. 操体は現在「きもちよさ」で語られているが、この本(というか農文協から出ている本は全て)は、「きもちよさ以前」つまり「楽か辛いか」時代の本であるから「きもちよさ」を期待してもそれは得られない(のでわからない)。
  2. 本来は操者と被験者(やる方と受ける方)の二人で行っている操法(操者がいるため、介助補助があり、運動充実感を得られるため、被験者は、感覚のききわけをしやすい)を、操者なしでやっているため、介助や補助がなく、運動充実感を得られない。いわば「のれんに腕押し」のような状態なので、わからない

★自力自動(操者なしで一人で行う)の操体法には、それなりのポイントがあるのです。これらは、いまのところ「書籍では殆ど発表されていません」

 

この二つが主な理由です。

特に「操体ってきもちよさ」と思っているのに「きもちよさ以前」のことをやっているのですから、分からないのは当然です。

 

また、本によっては致命的な間違いがあるものもあります。
(楽と快を混同しているとか、連動が誤っているものとか)

これは「本とその人の出会い」もあるので、運命というしか言いようがありません。

 

実は、きもちよさ(第2分析以降)の、操体を紹介している本はありますが(三浦先生の本です)、それも20年以上前のものであり、実際はもっと進化しています。

 

なお、自力自動の操体法ですが、現在は「よりシンプルに、よりわかりやすく」なっています。

 

ベーシック講習で「なるほど!わかりました。これならわかります」と言って頂けるのを聞くと、やはり嬉しくなります。

 

なお、操体法の基礎を一年かけてじっくり勉強しながらからだも調整するという

操体法基礎講座A」(2021年度もまもなく開講)のもやっています。

こちらは、私と、東京操体フォーラムタスクメンバーの、瀧澤さんと寺本さんでやっていますが、こちらはしっかり身につけて頂いています。

 

 

ティースクリップ(お役立ち)

ここ数年、ショートヘアではなく、髪の毛を伸ばしています。

今年の一月までは結構長くて、ひねってアップにしていたのですが、一月に少し切って、スパイラルパーマをかけて、部分的にブリーチを入れました。

 

その時に、ギリギリで結べる長さ(仕事の時は結びたい)にしてもらったのですが、なにせくるくるにパーマがかかっているので、ゴムで結ぶと絡みます。

以前から、るはなく、髪の毛を伸ばしています。

 

今年の一月までは結構長くて、ひねってアップにしていたのですが、一月に少し切って、スパイラルパーマをかけて、部分的にブリーチを入れました。

 

 

 

その時に、ギリギリで結べる長さ(仕事の時は結びたい)にしてもらったのですが、なにせくるくるにパーマがかかっているので、ゴムで結ぶと絡みます。

 

というわけで、以前から、スプリングヘアゴムを使っていたのですが、これもからみやすい。

といわけで、今絶賛愛用中がこれです。

 

 

がぱっと髪の毛がはさめます。

私の場合、かなりスパイラルにパーマがかかっているので(髪にボリュームが出ている)、以前、幅の狭いヘアクリップで挟んだら、壊れたことがありました(汗)。

 

これは、かなり大きさがあり、名前のとおり「歯」がついているので、多毛でも挟めます。

 

 

ぎっくり腰の時は操体ではどうするか?その2

続きです。

私(畠山裕美)の場合はどうするか、です。

 

私の場合ですが「足趾の操法」を用います。

ぎっくり腰をやる前に、診せていただいている方であれば「あれ?いつもと違う」ということが、はっきりわかります。

 

趾(あしゆび)や、付け根のあたりというのは「情報の宝庫」です。

 

我々は、その情報を「指先」でモニターしながら施術を行っていくのですが「そこの一点に触れられると、腰の痛いところに響く!」ようなところや「趾をまわすと、何だかカクカクひっかかる」とか「ピアノ線のような細い線が指に触れる」などのようなことがあります(他にももっとありますが)。

なお、これらは「重箱の隅をつつくような」細かい触診ですが、これはほぼ「職人の仕事」のような気がします。

 

 

何で足にさわって腰痛が解消するの??という話しですね。

操体あるあるですが、鍼灸なども、患部から離れたところの経穴に鍼を打ったりお灸をすえたりします)

 

 

これらの「触診」が、糸口になることが多いです。

ここからは、動診を使うなり、皮膚へのアプローチを使うなり、息診息法を使うなり、第五分析を使うなり、操者によって違うでしょう。

 

 

何度か書いていることですが、洋書で橋本敬三先生の「万病」を中古で買った時、「肩の痛みは足の操作から」という記述のところに、私の前の持ち主が、赤鉛筆で「?」をつけていました。

 

正確に言えば「肩の痛みは、足の収縮(contrantion in legs)とあるので、おそらくは、足の長さの左右差や、歪みを指しているのでしょう。

「50歳以上の人の肩の痛みは、足の長さの不揃いから起こっている(片足が収縮して短くなったりしている)。最初に操体法で、下肢の施術を行ってから、肩の操法を行う」

 

ざっくり言うと、この赤ペンで線を引いた人は「なんで50肩の理由が足なの?」「なんで関係ない足の治療からやるの?」と思ったのでしょう。

私も、操体のセオリーを知らなかったら「?」だったと思います。

 

なお、日本語を引用します。英訳とはちょっとニュアンスが違いますが、英語圏向けに訳したのかもしれません。

 

なお、足と足首ではかなり違いますよね。

 

同じ五十肩でも足に変化が出ている五十肩と、足に出ない五十肩とがあります。ほとんどのばあいは足に出るので、足首を動かすことによっても治ります。ところがたまに足に出ない五十肩があり、これは上体の歪みだけが影響しているので、足を動かしても治りません。

どこにいちばん影響が出ているのか、それにしたがってからだを動かすようにします。五十肩の治療がうまくできればベテランといえます。土台になっている足からしらべてせめていくようにすることが大切。最初から患部にかかると失敗します。

 

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