今日は朝8時から「東京操体フォーラム実行委員勉強会」。
午後は引き続き「定例講習」。
介助補助(抵抗、ではない)を用います。
きもちよさは探さないんだってば、と言い続けていますが、先日、実行委員のメンバーから、ペップトーク の理論から言うと、言葉のインパクトで、アタマの中には「きもちよさはさがす」(肯定形ではいる)とインプットされるかも!というアドバイスがありました。
う~ん、どうやって言おう。
きもちよさは、動診を行って、きもちのよさがあるかないか、ききわける
かな?
長いな~
ちなみに、何故私が「操体においてきもちよさは探してもダメだよ」と言っているかというと、
「きもちよさをさがす」という概念でやっていると、永遠に「操体における快」は味わえない。
それはとっても勿体ない!と思うからなのです。
ちなみに、操体臨床では「主役」は誰でしょう。
それは「からだ」です。
三浦先生に「自分の動きとからだの動きは違う」と習いましたが、本当にその通りだと実感しました。
きもちよさをさがすのは、誰ですか?
「私」
そう、「私」が主語だと、きもちよさを探しちゃうんです。
大抵は「私」が主語になっています。
しかし「からだ」が主語の場合は、「からだが、その動きが快か不快かききわける」となります。
操体は、一人でやろうが操者がいようが、主役は「からだ」です。
「さがす」という方は「私」が探しているんです。
一人でやる場合にせよ、客観的に「からだ」を主役として扱う醒めた意識が必要です。
「からだの声をきく、聞き分ける」ということです。
そしてもう一つ。
操体には「動診(診断分析)」を行ってから、「操法(治療)」に入るという基本があります。第一分析でも動診を行いますよね。
ある型をからだの連動の仕組みに沿って行ってみて、その動診の中に、快適感覚があるかどうか、確認する。それが、動診(診断分析)です。
そして、きもちのよさが、からだにききわけられたら、それを味わう。それが、第二分析、乃ち快適感覚に対応した操法(治療)になります。
また「きもちよく動く」のではありません。
きもちよく動く前に、動いてみて、それが快かどうか確認する必要があります。
動いてみないと快か不快かわからないのに「きもちよく動く」なんていうのは、操体の「動診・操法」の過程を無視していることになります。
春のフォーラムでは「本当に快適感覚を味わえる操体のセルフケア」でもやろうかなと考えています。
施術+ベーシック講習 | 操体法の講習 | 操体法 TEI-ZAN操体医科学研究所
昨年末の記事です。イチローさんが自己肯定感について語っています。
「僕にとってはすごく気持ち悪い言葉」 自己肯定感求める風潮に持論「人としての厚みが生まれるんだろうか。僕は堕落すると」
これなんですが、イチローさんが言っているのは「自己愛が強すぎ」とか「自己顕示欲過多」なのではないでしょうか。また、イチローさんの「謙虚な姿勢」でもあるかと。
私も「自己愛強すぎで自己顕示欲強すぎ」のサイコパス君を見たことがありますが、確かにそれは。。ですよね。これはもう書いたら長くなるので以下自粛です。
自己肯定感というのは、自己有用感、自分が役に立っているか、ということからくるそうです。自己有用感と、「自己愛」「自己顕示欲」は、ちょっと違う。
「自己肯定感なんて気持ち悪い」というのは、ほぼ男性(それもある程度社会的には普通かそれ以上)ではと思うのは私だけ?
★多分「自己愛高すぎて自己顕示欲が強い自分はエラいと思うイタいヤツ」を想定して「自己肯定感なんて気持ち悪い」と言っているんですよね。
しかし、女性は「低すぎて辛い」という人が多いし、周囲が自分をどう思っているか、とても気になるという人が多いのです。とにかく圧倒的に女性が多いのは事実です。
それは、家事や育児が労働対価にならないということもあるかもしれません。
キャリアウーマンが結婚して育児のために専業主婦になった時の話を聞いたことがありますが、自己有用感と自己肯定感が下がりまくったとのことでした。
つまり、稼いでいないので、社会的な自分の価値が低くなったと思うのです。
私もご相談を受けますが、親が「女は黙ってろ」という世代だったりするのと、母親自体が自己肯定感が低かったりして、それを娘に押しつけている、つまり「自分が辛かったんだから、アナタも辛い目に遭えばいい」という「負の連鎖」が続いているような感じもあります。このあたりは、簡単には言えません。
自己肯定感を高めるというのは、低すぎる自己肯定感(自己有用感)をあげて、もっとアナタの価値を自分で認めて、という意味に取ればいいのでは?
(使い方を誤っている人もいるのは承知していますので、その点はご了承ください)
低すぎて生きづらい人に「自己肯定感なんて気持ち悪いから捨てちまえ」というのは、ちょっと酷ですよね。
自己愛と自己顕示欲と自己チューになれ、ということではない、と。
低すぎるところから、せめて普通?のところまで高めることは、生きづらさを少しは軽減できる手段かもしれません。
自己肯定感は、ジェンダー論も関わってきます。
ちょっとまとまりがつきませんが、自己肯定感が低いとか自己有用感が低いとか、自分に自信がなさ過ぎとか、人が自分のことをどう思っているか過度に気になる、というのは、原因が自分自身以外(環境とか)にあることのほうが多いな、というのが私の感覚です。
今年もあと僅かとなりました。
私は明日(12月31日)から「東京操体フォーラム実行委員ブログ」を1週間担当しますので、
こちらもどうぞよろしくお願い致します。
標題ですが、今年は後半から「たんぱく質を摂ろう」と思い立ち、プロテインを飲むようになりました。
プルーンなんですが、秋口に「参鶏湯(さむげたん)を作ろう!」と思い立ち、色々材料を調べている時、ナツメの代わりにプルーンを使う、と書いてあったので「なるほど」(プルーンならおやつにも食べられるよね)と、甘栗と一緒に買ったのです。
鶏肉
米(餅米)
ネギ
しょうが
クコ
甘栗
プルーン
この辺りを圧力鍋に投入し、5分くらい圧力をかけて出来上がりです。
と、圧力でやったので、プルーンが溶けて「黒い参鶏湯」になりました。
「参鶏湯が黒くなっちゃった」と、フォーラム相談役のD師に訴えたところ
「烏骨鶏(黒いにわとりね)で参鶏湯を作ったと思えばよろし」とのアドバイスをもらい「ものは考えようだよね」と思いました。
というわけで、久しぶりにプルーンを食べたのですが、柔らかくて食べやすくて美味しい。なおかつお腹の調子もいい。それじゃプロテイン(飲むヨーグルトに溶かしている)飲むときに一緒に食べるか、と相成ったわけです。
このプロティンが、いろんな味がありました。
キャラメル味とフルーツミックス味、抹茶味を試していますが、いまのところ私はキャラメル味が1番気に入っています。
べつにストイックさを求めているわけではないので、おやつ感覚で摂取できればいいじゃん、という感じでもあります。ほぼおやつか。
何よりも面倒臭いと続かないので、牛乳か飲むヨーグルトに混ぜて飲めるというのがいいですね。
先日のフォーラムで
「きもちよさは探しません!!」と何度も説明したのですが、「一人で操体をやると探してしまいます」というメールを頂きました。
一人でやっても、きもちよさは探しません。
型(動診)を行って、その中にきもちの良さがあるのか、ないのか、からだにききわけるのです。探すというのは「型」を無視していることになります。
型(動診・診断)と操法(治療)という順番で行うのが操体ですから、探すというのは、そもそも操体の理念から外れているのです。
ここから本題。
最初に書いておきますね。
操体を自分で行う場合
「ラクにきもちよく」と、言っている人がいたら、それは操体を理解していないということです。
惑わされないでください。本も出ています。
この出版社の方から聞いたことですが「実際に操体をやってみてもきもちよさ、というのはわからない」とのことでした。私はその時「それならば快をメインの操体をうけてみますか?」と聞いてみましたが「本を読んで理解します」と言っていました。
私もここの編集の方に「何か操体の本(快に特化)を書かせてもらえませんか」と頼みましたが、隔月刊誌にちょっと書かせてもらったくらいで後は疎遠です。
「操体って快だよね」と言っていながら、実は「操体における快が実はわからない」という、欺瞞です。
まあ、わかっていないから「ラクな方に気持ちよく動いて」とか言えるんですね。
この出版社からは操体の本(橋本敬三先生)が何冊か出ていますが、「操体が快になる前」のものです。完全に移行する前のもので、勿論多少「快」の文字も出てきますがこの時は、まだ橋本敬三先生も「楽と快の違い」は明言されていません(しかしながら、出てくる動診操法で「快」に対応するものは。対なる動きを比較対照するものでなく、1つ1つの動きに快がききわけられるものになっています)。
こちらの出版社から出ている橋本先生の本は「操体が快になる前のもの」なので、こちらに載っている操体をやってみても「きもちのよさ」が体感できないのは、当然と言えば当然です。
楽と快は違うからです。
これは私が言ったのではなく、操体の創始者、橋本敬三先生が仰ったことです。
「ラクな方に気持ちよく」という言葉は「言葉的に優しい」感じがしますが、それに惑わされてはいけません。
ラクときもちよさは違うのです。
楽な方は、きもちよくないことの方が多いのです。
但し例外があります。健康でどこも悪くなくて、からだを動かすこと自体が生命感にあふれている赤ちゃんや子供や若い人ならば「うごかすだけでもうきもちいい」というkともありますが、
そもそも操体をやろう、と思う人は、どこかしら調子が悪いのが前提です。
このような場合、ラクはラク(こっちに動かすといたいけど、こっちはラクで痛くない)なのです。
私は年中口を酸っぱくして「きもちよさは探してもみつからないよ」と言っていますが、それにも関わらず「きもちよさを探す」と言う人がいるのは、
「ラクな方にきもちよく」ということを言う方がまだまだいるからです。
操体はそもそも「動診」(ある動きを試してみる)と「操法」がある
「動診」は、好き勝手にからだを動かすのではなく、あらかじめカラダの連動の仕組みやツクリに沿ったものが「決まっている」のです。
いいですか。好き勝手に色々動かして、ではなく、一人で操体を行うにせよ、動診(どうやってからだを動かすか)は「きまり」があるんです。
その「動診」の意味をしっかり捉えていないと「好き勝手に動いてください」となり、
好き勝手に動いても「きもちよさ」には巡り会わないので、「そんなら色々動いてさがしてみるか」となるのです。
私が自分で操体を行う場合ですが、
いくつかお好みの動診がありますので、それを行います。
いくつかご紹介しましょう。
般若身経。操体におけるからだの使い方。動かし方の法則です。
般若身経でも「こりゃいつもきもちいいよね」というのがあります。
それは、捻転です。
立位ではなく、正座からつま先立ち位になります。
そして両手の中指と薬指を。それぞれの肩峰に当てます。
そこで、膝を支点にして、ゆっくり左右の捻転を行うのです。
これは、長年ベーシック講習でもやっていますが、かなりの確率で「おっ、これはキモチいいですね」という反応を頂きます。ここまでが「動診」です。
「キモチいいですか?そのきもちよさ、味わってみたい要求がありますか?からだにききわけて、教えてください」と、自分でやっていても、客観的に「からだ」に問いかけます。
そうなんです。「自分」と「からだ」を切り分けるんです。
これが、一人で操体を行う場合の、最重要ポイントでもあります。
「私(アタマ・思考)」は「何回もやった方が効果があるかも」とか「左右同じ数だけやったほうがいいかも」など、損得や正しい正しくない、で考えます。
おなか一杯でも、目が欲しい時なども同様です。
しかし「からだ」は、「一度でも充分なきもちよさがききわけられれば充分」
「左右均等にやらなくとも、快の方向に操法を行えば充分」というように、「損得勘定」「正しい正しくない」「常識ではこうでしょ」とは別です。
「からだ」は「好きかきらいか」「快か不快か」で反応するんです。
この辺りを理解せずに、単にエクササイズ的に動きを行ったり、好きに自由に動いてキモチヨサを探してぇ、とか、ラクな方に気持ちよく動いてぇ、とか言っているので、
結果的に「きもちよさを探す」になるのです。
探すのではなく、指定された(型があります)動診をためしてみて、そこで「きもちのよさがあるのか(からだにききわけられるのか)?」という問いかけを行います。
ここまでの動診は「型」です。型がちゃんとあります。
きもちのよさがききわけられ(あり)、そのきもちのよさを味わってみたい要求があるのか「からだにききわけて」みます。
味わってみたいという要求が、からだにあれば、そのきもちのよさを味わいます。
これが「操法」です。きもちのよさを味わっている時は、操法に入っているので「動き」は、からだに委ねます。型から抜け出るのです。
未だに「ラクな方にきもちよく」と、操体で指導している人がいたら、私は言いたい。
操体の創始者の橋本敬三先生が『楽と快は違う』とおっしゃっているのだから、人を惑わすようなことは言わないことです。
色々アレンジしたりしてもいいと思いますが、原理原則を曲げてはいけませんし、「楽と快は違う」とおっしゃった創始者の言葉を曲げるのもいけません。
もし「ラクなほうにきもちよく動いて治す」とか「きもちよさを探して動く」というのなら、「操体」という名前は使わずに、オリジナルの「○○法」とか「○○メソッド」と言えばいいのです。