こちら、内容のために、何だか妙な広告が出まくるので、noteに移動します。
操体における「快」のとらえ方(1)
TEI-ZAN操体医科学研究所の畠山裕美です。
私が言うのは「世間一般の『快』『きもちよさ』」ではなく、操体(操体法、操体の臨床における)「快」のとらえ方です。
これが大前提になりますので、ご容赦ください。
1.楽と快は違うのに、混同している
×「らくな方に動かして、一番きもちのいいところで動きをたわめて」
×「どちらがきもちいいですか?」
検証 橋本敬三先生は、85歳の時三浦先生に、卒寿のお祝いの席で「楽と快は違う」と明言なさっています。「万病」の頃は、まだ、楽と快の違いがそれほど明確ではありませんでした。
★ご本人が後に訂正しているのですから、それは聞いてあげましょうよ、と思うんですが、如何でしょうか。
「万病」の実技にも混同されている記載がありますが、基本は「痛い方、違和感があるほうの反対側」ということです。
なお「万病」時代には、大きく分けて3つのやり方がありました。
①対になった動きを比較対照し、楽な動きをとらせ、数秒たわめて瞬間急速脱力
例えば、膝を左右に傾倒する動診操法
②圧痛硬結を解除するもの、あるいは圧痛点消去法
例えば ひかがみの圧痛を足関節及び足指関節の背屈で消去するもの
③ 「万病」51ページ、あるいは「からだの設計にミスはない」の218ページ、同16ページの写真などのように、比較的きもちよさをききわけやすい動き、頭頂や頸椎7番に抵抗を与え、伸展させるもの、前屈の動きに操者が背面から抵抗を与えるものなど。
特徴としては「脊柱を伸ばすのと縮めるのはどちらが楽か」「前屈と背屈どちらがらくか」という問いかけはしておらず「比較的きもちいい動きを一方向のみ」で試していることに注意
この3つです。
ただ、現在ポピュラーなのは①と②です。
③については、あまりやっている人は見たことがありません。
③があり、③では割ときもちのよさも味わえますが、③では比較対照はしていません。これがポイントです。
2.主語は「からだ」である
×「きもちよさがでてくる」
ここ数日毎回出しているイラストです。
これが操体の鉄板です。
第二分析では
からだに、動診(診断・分析)を行い、快適感覚の有無を調べます。
まず、診断が最初です。
きもちのよさ、も「動いてみないとわかりません」。
「きもちよく動いて」というのは、順番的に間違っているのです。
からだ、が主語です。
操体における快のとらえ方を誤っている場合、ほぼ「主語」が「きもちよさ」になっています。
なお「きもちよさ」を主語(主役)にしてしまうと
「動けば必ずきもちよさが出てくる」(でてきません)という理解になります。
動診をとっても、必ずしも快適感覚がからだにききわけられるとは限りません。
理由:操者の介助補助、言葉の誘導や、動診の選択が間違っているから
理由:バランスがとれていて、楽でなんともないから
我々は「快が聞き分けられない」のも情報の一つとして受けとります。
ここで、上記の理由により『快が聞き分けれらない』のに「快」に執着(絶対ある)するので「きもちよさを探して色々動いてみる」ということになるんです。
また、もう一つ。「きもちよさが出てくる」という人の例ですが、身体能力が優れていて、自分のからだを少し操っただけでも快適感覚が感じられる人がいます。
こういう人たちは「からだにききわけて」という、ステップを通り越してしまうので「きもちよさがでてくる」という言い方をするようですが、聞いてみるとやはり「主語」は「きもちよさ」です。
彼らは本当に感覚に優れているので「からだ、が主語だよ」と言っても、それをスルーしても快適感覚を感じられるので、逆にやっかいです。
自分が動きをとるとすぐに快を感じられるので、他の人(つまり、普通の人や、からだを壊していて感覚が鈍磨している人にも)
「ほら、こうすると、きもちいいでしょ」と、快の押し売りをすることがあります。
「自分ができるから、他の人もそうだろう」という間違いです。
身体能力が優れている人は、優れた治療家にはなりにくいのかもしれません。
「普通の人」の感覚がわからないからです。
「人の痛みがわかるのがプロよ」と、橋本敬三先生も仰っていました。
一流のスポーツ選手が、一流のコーチにはなりにくい、というのと同じです。
3.操体の「行程」を誤っている
操体は、まず「診断・分析」を行います。
先程も書きましたが「快か不快か、それとも楽でなんともないか」というのは、動いて(動診。診断分析)をしてみないとわかりません。
4. 「型」に、感覚を関与させている
これは、よく見かけることです。
般若身経は「からだの使い方、動かし方の基本法則」です。
勿論習得すれば、感覚分析にも運動分析にも使えます。
ただ、最初に覚えるのは「型」です。
前後屈、左右側屈、左右捻転の際、重心をどのように移動させればいいのか、型を覚えるところで「この動きをするときもちいいんですか」とか言う人がいたりしますが、
これも間違いです。型を覚える時は、型を覚えてください。
また、動きをするときもちいいんですか、というのも、操体の順番を考えると変な言い方です。きもちいいかどうかは、動いて見ないとわからない、これ、一番大事です。
まずは型を覚える。それが先決です。
「連動」も同様です。
先日も「きもちよさを探して動けば、自然な連動が出てきますか」という質問がありましたが、これもとらえ方が「きもちよさが主語」になっています。
「からだ」が主語です。
自然な連動(ボディに歪みがない場合に起こる、手関節、足関節からの全身形態の連動の法則。ボディに歪みがある場合は、不自然な連動が起こる。操体臨床を必要としている患者はほぼボディに歪みを抱えているため、不自然な連動を起こしている場合が多い。
例をあげると、仰臥膝二分の一屈曲位で、膝を右に傾倒した場合、自然な連動であれば、首は左に向く。首や腰にトラブルがある場合は、首も右に向いたりするが、施療後、ボディの歪みが解消されると、本来の自然な連動をとるようになる)
被験者に「自然な連動を元にした」動診を行う。
ポイントはゆっくり表現すること。その表現の中で、快適感覚の有無をききわけてもらう。
どうしても「きもちよさ」というパワーワードが頭に入っているので、
「動くと必ずきもちいい」という思いこみと
「からだ」ではなく「きもちよさ」が主語になってしまいます。
再度言いますよ
「操体における『快』は、からだにききわけるものである。出てくるとか探すものではない」
「必ず快が聞き分けられるわけではない」
覚えてから「動きをゆっくりと感覚をききわけながら試し」
①左右ためすなら、どちらが楽か辛いか(やりやすいかどうか)を確認、楽な方をやってみる
②快適感覚をききわけたいなら、一つの動き(比較対照しない)をゆっくりと末端から表現し、快適感覚の有無をききわける(楽でなんともない場合もある)
4.快・不快の法則を理解していない
「快・不快の法則」というものがあります。なぜ「快適感覚が起こるのか?」という根本的な法則です。
これを見て頂くと「楽でなんともない」というところがあるのがお分かりいただけると思います。
快・不快は、ボディに歪みがあるからこそ、なのです。
バランスがとれていていれば「楽でなんともない」のです。
2024年春季東京操体フォーラムの「質問」にお答えします(1)
TEI-ZAN操体医科学研究所の畠山裕美です。
橋本敬三先生の書籍の帯に「快を探る」というのがありますが、あれは
「快の本質を探究する」という意味であり、
「快を探って色々動いてみる」というわけではありませんからね。これを勘違いしている人がいそうなんですが、これ、大事です。
最近フォーラムでは「教えて!三浦先生」というコーナーを設けています。
参加者からの質問に三浦寛先生が答えるというものですが、参加者からの質問を読んでいると、共通点があることがわかりました。
それは「操体における『快』」を語っているのではなく、今までのご自身の経験から導かれる「快」で操体を考えているのではなかろうか、ということです。
なお、今日ふと気がついたら、「理趣経」の解説本が目に入りました。
私も一昨年、仏教塾の「真言宗」の修行に参加しました。
いえ、ご祈祷系曹洞宗が好きなのと、豊川稲荷(お寺です)や、伊豆の修禅寺、今は曹洞宗だけど、昔は真言宗、というのもあり「阿・吽」好きだし、春と秋の結縁灌頂も参加したくらい結構お大師様好きなんですよ。
さて、なぜ理趣経を思い出したかというと、このお経「人間が肉体的に持つ五欲は、悟りの立場からみれば清浄である」というものです。つまり、性欲を清浄である、と肯定しているのです(超端折ってます)。なので、知識の浅い者が勘違いすることがないように読める人を限定したり、聞いても分からないように漢音で読んだりしているんです。
「きもちよさ」という言葉も、操体の理論をきちんと勉強していない人がいい加減にやったりすると、勘違いして暴走することがあるのです。
しかし、きもちよさ、という言葉はインパクトがあります。
現在操体に興味を持つ人の殆どは「楽」じゃなくて「快」に興味を持ちます。
よくある勘違いは、般若身経の形を勉強しているのに(型を学んでいる)、そこで楽とか快とか、感覚を持ち込む人がいます。これが混乱の元です。
「快」を早くやりたい気持ちはわかるけど、まずは「感覚」は置いといて、型を完全にマスターしてからです。
そして操体臨床の独特な言葉遣いですが、最近、この辺り、現代催眠系とかなり似ているのではないかと考えています。
また、実は言葉の誘導も「型」があります。
一字一句完コピです。これが「守」。私もそうでしたし、受講生の方は「そうだよね」と、遠い目になってもらってもいいんですが、完コピです。
ヘンなことを言うと、先輩から丁寧に注意されます。
この、言葉の誘導を2年以上かけて習うわけなのです。
おおよそ、最初の2年くらいで、それまでのからだの使い方のクセとか、言葉の使い方のクセを直すんです。
私はもう20数年三浦先生の元で勉強していますが、最初は完コピです。
ノートに書き写してトイレや風呂でも練習していた記憶があります。
その後ですが、自然に「被験者」にではなく「被験者のからだ」に問いかける話法をマスターしました。
これは「あれ?できてる」という感じです。
そしてとっても気になるのが。
「きもちよさがでてくる」という言い方です。我々は言いません。
前提ですが、我々は「からだ」を主語にして文脈を組み立てています。
「からだ」を主語にしていると、「きもちよさが出てくる」という文脈にはなりません。
主語は「からだ」です。
からだに、きもちのよさをききわけるのです。
普通の治療法では、先生と患者という二対一になりますが、操体は、先生(操者。役目はコンサルタント)、患者自身、からだ、という3つが登場します。
これは、操体のかなり大きな特徴であり、整体とは違うところです。
長くなりましたが、三浦先生に寄せられた質問に私が答えるという?
ヘンなコーナーです。
質問
①きもちよさを追求していけば、連動した自然の動きは出てくるものでしょうか?
①ですが「きもちよさを追求」というのは、言い方を変えれば「きもちよさを探す」ということになるかと思います。後半の文章から判断しました。
★動きが出る、とかきもちよさが出る、という言い方はしません。
きもちのよさは、からだがききわけるもの、なのです。 どこかからプワーンと出てくるものではありません。
連動した自然の動き、とありますが、三浦先生が本に書かれた連動は、
連動した自然の動き、という言い方ではなく「自然な連動」あるいは「不自然な連動」
という言い方をします。
自然な連動、というのは、ボディに歪みがなく、設計図通りの自然な連動が起こること。不自然な連動、とはボディに歪みがあるため、自然な連動が起こらないことを言います。
①きもちよさを追求していけば、連動した自然の動きは出てくるものでしょうか?
答え。出てきません。順番が逆です。「自然な連動」つまり動診が先です。
★操体では、動診が必ず先です。
- 被験者に末端関節からの「自然な連動」を介助補助を与えながら、ゆっくり表現してもらいます。
- 全身形態が連動してきたら、からだによくききわけて快適感覚の有無をききわけます。
ご質問内容の意図はわかるのですが、順番が逆だということです。
また、快が必ずある、とは限りません。ためしてみないと、わからないのです。
なので、動診(自然な連動の型をもとにすることが多い)をして「快適感覚の有無をききわける」のです。
無い場合もあるんです。
快は、探さない
快は、動診を試してみて、有る無しをからだにききわける。
(無い場合もある)というのが基本です。
2024年春季東京操体フォーラムが無事終了致しました。
こんにちは。TEI-ZAN操体医科学研究所の畠山裕美です。
昨日春季東京操体フォーラムが無事終了致しました。
ご参加の皆様には深く御礼申し上げます。
個人的には瀧澤さんの発表、小学校1年のお子さんの鼻の骨の骨折に関する発表(操体の真骨頂)は、橋本先生の「マストから落ちた男」並みに凄いなと思いました。
症例発表としても素晴らしいものだと思います。
操体で「スーパー治癒力」が発動したすごい症例です。
なお、秋のフォーラムは11月23日に開催致します。
私自身は、相変わらず「楽と快の違い」について触れましたが、参加者からの質問や反応から察すると、
・本来最初に「型」(般若身経とか)を学ぶべき時に、「きもちよさ」という先入観があるので、なんだかおかしくなるのでは
と感じています。
型を覚えるのだから、この時は「型」を覚えることに集中すればいいのですが、その際に「きもちのよさ」という言葉に執着するから、おかしくなるのです。
まず、身体運動の法則(般若身経)の型をしっかり覚えてから(本をみてもわかりにくと思います)
「感覚」の分野に入りますが、最初は「楽か辛いか」でいいんです。
最初から「きもちのよさ」は早いのです。
勿論、早く到達したいのはわかりますが、まずは「型」です。
そして「快(きもちよさ)」に執着しないこと。
快がききわけられないこともあること。
操体では「からだ」が主語なので、「きもちよさが出てくる」という言い方はしないこと。
また、操体と他の療法の違いですが、他の療法は「治療者」と「患者」の二つが存在します。リードするのは治療者です。
なお、操体は「患者、操者、からだ」という三つが存在します。
なぜなら「患者本人(エゴ)」と「からだ」の要求は異なることがあり、臨床は「からだの声」に従ったほうが、うまく行くからです。
「患者本人」は「回数をたくさんやったほうが早く治るんじゃないか」とか「左右均等にやった方がいいんじゃないか」と損得や正しい・正しくないというモノサシで考えますが、「からだ」は治癒に繋がる答えを「快不快」で教えてくれるからです。
橋本敬三先生の本の扉に「快を探る」という一文がありますが、
これは「快の本質を探究する」という意味で、
「きもちよさを探して色々動いてみる」というわけではありません。
これは、操体をよく知らない人が勘違いしやすいので、指導者はかなり気をつける必要があります。
指導者が「やりやすい方に動かして、一番きもちがいいところで動きをたわめて」というような指導をすることがありますが
やりやすい方が、突然『一番きもちがいいところ』に変わるわけがない、と指導者はちゃんと認識すべきです。
このような指導をするから「楽な動きを選択した」「当然『きもちよさ』はききわけられない」しかし、「一番きもちがいいところ」と、指導者が誤った指導をするから
「きもちよさを探す」になるのです。
最近の「きもちよさを探してしまう」問題は、やはり操体指導者の無知に問題があります。
「色々なやり方があっていい」という問題ではなく、橋本敬三先生ご自身が「楽と快は違う」と、おっしゃっているのですから、楽と快を混同(楽な方にきもちよく)という、被験者や操体に興味がある人を迷わせるようなことを言うのは、無責任ではとつくづく思います。
なお「きもちよさ」という言葉が持つ大きなエネルギーとインパクトについては、今、文章にまとめています。
この言葉は、諸刃の剣とも言うべき、力があります。
操体実践者は「きもちのよさ」という言葉の使い方に関しては、細心の注意を払う必要があります。
それが「操体ってなんだかわからない」とか「操体で言うきもちよさってわからない」とか「さがしてもわからない」という誤解が起こらないようにするための方法であり、操体が21世紀、22世紀と受け継がれ、自然法則の応用貢献が成るための方法です。
どうか、操体実践者の方や、指導者の方。
操体を「よくわからない」ものにしないために「楽と快の違い」は、明確にしてから指導をお願い致します。
操体と整体の違い
こんにちは。TEI-ZAN操体医科学研究所の畠山裕美です。
「操体?整体じゃないんですか?」と聞かれることがかなりあるんですが、違います。
「北風と太陽」という童話がありますよね。旅人のコートを脱がせるために、北風が風でコートを脱がせようとします。太陽は、暖かさでコートを脱がせようとするという話です。
整体が悪いところ(患部)にアプローチして、多少の痛みを与えつつ治す(旅人のコートを脱がせる)のであれば、操体はよいところにアプローチして、ぽかぽかと暖かい太陽のように(快)でアプローチ士、旅人のコートを脱がせるようなものです。
良し悪しではなく、結果的には同じ(コートを脱がす、つまり治す)ことですが、プロセス(痛みを与えて治すのか、きもちよさを与えて治すのか)の、違いです。
整体は主に「悪いところ(患部)を動かす」ということです。
もう一つ。操体は、熟練した操者(第二分析をマスターしていれば)「きもちのよさで良くなる」という経験を味わせてくれるはずです。
操体で「快」「きもちのよさ」を味わってみたいなら、最初はプロの操体を受けてみてください。これが操体を味わいたのしむ、最短距離です
一人でできる、と、独学(本を読んだりして学ぶ)のは、違います。
私のところには「橋本先生の本を読んだけど、わかりません」という方がかなり
いらっしゃいますが、そういう方のお悩み解決と、セルフケアのためにこの講座をや長年やっています。
当方一番人気の講習です。
操体法東京研究会に参加する方も、こちらを受講してから、という方多し。
施術+ベーシック講習 | 操体法の講習 | 操体法 TEI-ZAN操体医科学研究所