TEI-ZAN操体医科学研究所の畠山裕美です。
最近、似たようなことが周囲で起こります。
それは
ハウツーばかりが出回っているので、目的ななかなか成就しがたい
ということです。
願望達成といい、操体をマスターする方法といい、昨日の「健康運動指導士の資格更新研修」でもそんな話を聞きました。
「情報過多なので、その中から正確な情報を見極めるのが大事」と言いますが、実はそうではなく
「ハウツーばっかりを拾わないで、ちゃんと内容を理解して、手順を踏めや!」
ということではないでしょうか。
操体も「どうやってやればいいのか」というやり方に注目が集まりがちですが、
何故治るのか、というシステムや、整体やいわゆるストレッチや理学療法とはどう違うのか。
その証拠?といったら何ですが、操体の本を読んで、やってみても「わからない」という人が多いのは、事実です。
それは何故かというと、操体を、体操とかストレッチとか、整体とか理学療法などの「操体以外」のものと一緒だと考えて試してみるからなんです。
橋本敬三先生が「楽と快は違う」とおっしゃった理由は何なのか?
いいですか?
畠山が言ったんじゃなくて、橋本敬三先生がおっしゃっているんですよ。
85歳の時と、90歳の時に。
「万病」の時はまだ多少混同していた傾向がありますが、90歳の卒寿のお祝いの席で、皆さんの前で「楽と快は違う」っておっしゃったという記録もあるんですよ。
「楽と快は違う」と、創始者がおっしゃったんですよ。
操体を他者に指導する方は、例えそれが一般の方であろうとなかろうと、その責任は取っていただきたいのです。何故なら、真面目な方が「あやまった情報を鵜吞みにする」からです。
例えば、こちらをご覧下さい。
これは、操体の動診操法の行程において「あやまっている」例です。
- 左右どちらかやりやすいほうに、ゆっくりときもちの良いところまで捻ります
- 一番きもちのいいところで3~5秒止めたあと、全身の力をストンと抜きます
- ひと呼吸おいて、3~5回くり返します
まず「やりやすい方」が、きもちのよいところ、とは限りません。
また、この書き方では「かならずきもちのよいところがある」という前提になっています。
実際にクライアントに接するとわかりますが「ない」場合もあります。
我々は「ない」場合もそれを分析の結果として活かします。
ただ、指導者と本人が「かならずある」と言う概念に囚われていると、どうなるか。
そうです「きもちよさがあるかもしれないから、色々動いて探す」となるのです。
また、この例で気になることですが、
本来動診(快を問いかける第二分析では動きを比較対照せず、1つ1つの動きに快適感覚の有無を問いかけます)で『快』を問いかける場合、本当にきもちのよさが聞き分けられている場合は、3~5秒では足りませんし、瞬間脱力はできません。
★補足です★
指導なさっている方が、とんでもなく身体能力が高い場合は、「動くときもちいいところが見つかっちゃう」ということがあります。
これは何例も知っていますが「動くと確実に『快』をキャッチできる」という、希有なからだの持ち主ですが、
が、
操体をやってみたいという方は、大抵はこの限りではありません。
なので、指導者は「動くときもちいいじゃん」となるのですが、被験者は「?」となるのです。
「自分が気持ちいいからといって、他者もきもちいいとは限らない」
操体の指導者は、これをしっかり認識しましょう。
★補足終了★
なので、上記のように書かれている場合、疑うべきは、
「操体の理論と、楽と快の違いと動診操法の行程を本当に理解しているのか?」
ということです。
そして、橋本敬三先生がおっしゃっている「言葉は運命のハンドル」という意味や「想」の意味を理解しているのか、ということです。
もし、自分一人で好き勝手にやっているなら、何も言いませんが、人様に操体を指導するのであれば、それなりの理解はしていただきたいのです。
このあたりも「テクニック」「ハウツー」だけ追いかけるとこうなるんです。
おそらく、先の説明を読んだ人は、確実に
「動きを比較対照してもきもちよさって、わからない」
「それなら色々動いてきもちよさを探してみるか」
「でも、探してみてもわからないぞ」
「なんだ、操体ってよくわかんないからやめようっと」
となることが予想できます(というか、こういう体験をして、なおかつ操体をあきらめられない人が、私の『施術+ベーシック講習』にいらっしゃいますので、この辺りは、あるある、なんです。