操体法大辞典

操体の専門家による、操体の最新情報など

自力自療の意味・内なる治療家(インナー・フィジシャン)

以下は昨年2006年秋季東京操体フォーラムで発表した「VisionS」への掲載原稿を加筆訂正したものです。



『自力自療』の意味について、私は繰り返し繰り返し書いていますが、

これは『自己責任』でもあります。



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操体、というと『自分で動く』『自分でできる』と思っている人がいる。中には『自分で動くのだから、指導者(先生)の手を借りるのはおかしい』という人もいる。(勿論これはナンセンスな物言いだが、)これは一体どのように解釈すべきか。操体は本人が感覚をききわけ(診断)、味わう(治療)というプロセスを経るので、一対一の臨床も、フィットネスクラブやカルチャークラブでの、口頭による不特定多数へ指導も、一人で行う自力自動の操体も自力自療である。



1.

 一対一の臨床:指導者(操者)が被験者に介助補助を与え、的確な言葉の誘導で、快適感覚をききわけ、味わうように導く。健康傾斜の度合いが高く、間に合っていない状態や、操体初心者の場合に向いているのではないだろうか。この場合、何故、操者の存在が必要であるのか。



2.

・動きに対する安定感

・動きに対する運動充実感

・局所関節の動きを伴う連動性の誘発(口頭での誘導を含む)

・感覚の聞き分け(をとりやすいような言葉の誘導)



操者はこのようなサポートをする。操者の存在によってより質の高いきもちよさを味わうことができるのである。これが、操者の存在の所以だ。



3.フィットネスクラブやカルチャースクールでの口頭による指導

 エアロビクスのクラスのように、インストラクターが口頭で動き、そのスピードなどを指導する。この場合、指導者は参加者に触れるわけではないので口頭での誘導になが、言葉の誘導ひとつで相手の動きは変わってしまう。指導者にとっては、一番難しい指導法とも言える。



4.一人で行う(自力自動)場合

 操体に興味をもった場合、書籍を買って自分で試してみることが多いと思う。1と2の場合は指導者が重心安定の法則、重心移動の法則、連動法則、呼吸と動きの関連性を熟知しているため、本人(受け手)は集中して感覚をききわけることができるが、初めて書籍などを読んで読みながら試みる場合、往々にして、りきみすぎる、早すぎるようになり、感覚をききわける余裕がない。よって単なる運動になってしまう。



重要なことだが、『感覚のききわけが伴わないものは、操体ではなく、単なる運動である』ことを覚えておいてほしい。一人で行うのが一番簡単そうに思えるだろうが、初心者は機会があれば指導者の指導(1か2)を受けてからのほうがいいだろう。最初におもいこみで変なクセがついてしまって(書籍に正しく説明されているにも関わらず)間違ったやり方を続けていて『操体ってわかんないゎ』と言っている例を筆者は数多く見ている。

これは非常に勿体無いことだと思う。



先日、フォーラム実行委員の金さんとメールのやりとりをした。彼女はオステオパシーも勉強されたそうだが、私も十五年前に、オステオパシーの中の『頭蓋仙骨治療』という手法を勉強している。元々オステオパシーは『整骨療法』と訳され、人体の関節を他力的に動かして調整するものである。カイロプラクティックもここから派生したものだ。古典的なオステオパシーの中に、関節を動かしてみて、可動域が大きいほうに動かし、暫く保持すると、可動性がよくなる、という手法もある。正体術に似ていないこともない。

頭蓋仙骨療法というのは、オステオパシーの中でも比較的新しい分野のもので、頭蓋から首を通り、脊柱、仙骨を包括している髄膜(脳と脊髄を包む三層の膜)の中に満ちている髄液(脳は髄液の中に浮かんでいる状態にある)の、第一次呼吸システム(髄液の循環の一定のリズムを指す)に着目したものだ。(第一次呼吸システムとは、通常の肺呼吸とは別のもので、この普通呼吸を第二次呼吸システムと呼んでいる)



アメリカのアプレジャー博士はある緊急手術を手伝って、硬膜を切開した場所を固定していた。その時、髄液が肺呼吸とは違うリズムで循環し、髄液が脳に満ちると頭蓋骨の縫合がそれにともなって微妙に開き、逆に髄液が仙骨側に回ると微妙に閉じることを見つけた。そして、そのリズムの崩れは体調、不調と関係があることがわかった。これを整えることによって、治癒力を高めるのである。方法としては、頭蓋、あるいはからだにそっと触れるだけだ。一例には5gの圧、と言われている。非常に軽い圧である。



この圧を加えていると、髄液の流れが止まる場合がある「スティル・ポイント」という。頭蓋骨に触れる場合もあるし頭と背中に触れる場合もある。私の印象だと、アプレジャー博士の方法は、大抵二箇所に触れるように思える。



この状態になると何が起こるか。いつでも、誰でもというわけではないが、「もうひとりの私」(インナー・フィジシャン:内なる治療家)が登場するのである。

この、インナー・フィジシャンは治し方を知っているし、本人が知らないような情報ももっている。治療家はそのヒントをインナー・フィジシャンから得ることができる。アプレジャー博士の『もうひとりのあなた』という本の中ではもう一人の「カモメ」と名乗る人格が現れたりする。そのもう一人の人格と対話することによって、症状が改善することもある。



ここまで読んで『渦状波(カジョウハ)に似ていないか?』と思った方もいるだろう。



★渦状波:皮膚へのアプローチ



私達は『からだにききわけて』という言葉を使う。その人のアタマではなくからだにききわけさせる。『患者に聞くな。からだにききわけさせなさい』と。最初わからなくても、そのうちからだが反応してくる。この場合の「からだ」というのは、おそらく、インナー・フィジシャンとほぼ同じものだと言っていいのではないだろうか。

(個人的には、あちらのインナー・フィジシャンはお国柄自己主張が激しく、日本の(操体の?)からだは少しだけ、奥ゆかしい(?)のだろうか、と思う)



さて、渦状波も頭蓋仙骨療法も無意識の動きが出てくる。無意識の動きと言えば、活元運動も無意識の動きが出てくる。無意識の動きというのは根源的に『快』である。

どれも終わった後は、爽快感を味わうことができるが、操体と、頭蓋仙骨、活元の決定的な違いは、その最中(過程)にきもちよさをききわけさせる、というところだろう。