操体法大辞典

操体の専門家による、操体の最新情報など

逆モーション的操体法と遠隔的操体

前日の続きになるが、このように、首にトラブルがあるからといって首に手をかけたりはしない。

首が痛いからといって、首の痛みのある方向を選択して痛みから逃げる(痛くない方に動かす)、そして瞬間急速脱力させるという方法もあるが、動きをもって感覚をききわけさせる場合、患部には直接触れないほうがいいと思う。どういう道理かといえば、仰臥膝二分の一屈曲位での足関節の背屈で、膝窩(ひかがみ)の硬結が解除され、それに伴って腰が楽になるのとほぼ同じだろう。橋本先生も「肩の痛みは足首の操作で解決できる」と言われている。

経絡治療にもあるような、遠隔治療というやつだ。



また、そこが痛いからといってそこにちょっかいをかけるのは危険な場合もあるし、悪化させる場合もある。手技療法における事故や症状の悪化の原因はほとんどこれではないだろうか。



また、動きの操法(皮膚にアプローチする場合は、最大圧痛点に触れる、本当に触れるだけで押したりはしない)をする時に痛いところ、辛いところに触れるのは一般の方ならともかく、、と思う。



操体が「逆モーション運動」と言われていた時代(操体、という名称がつく前の話である)には、例えば首の左捻転が辛い場合、辛くない(楽な)右捻転をさせ、感じのいいところでたわめの間をつくり、瞬間急速脱力させていた。その名の通り「逆モーション運動」なのであるし、正体術の影響色濃い(ほとんど正体術と同じだろう)ので、「痛い方から痛くない方に動かして、瞬間脱力」という感じだったと思う。



「逆モーション運動的」な操体の動診操法は、患部を動かすのだ。



これは私の推測だが、正体術に酷似していた時代の操体法操体)は、おおまかにみて

・正体術っぽいもの

・最大圧痛点に触れ、患者に逃避反応をとらせるもの

・逆モーション運動



的なもので構成されていたのではないかと思う。つまり「快適感覚」ではなく「痛みをとる」「楽にする」という、感覚分析というよりは運動分析の操法

だったのだ。



また、逆モーション運動がそのまま操体として伝わっている場合もある(日経ヘルス4月号掲載の「首の前後の操体法」というのがまさにそれである)

操体の進化の過程から言えば、逆モーション運動はきわめて古い時代のスタイルといえるのではないだろうか。



勿論橋本先生もされていたので悪いとは言わないが、30年前、40年前とは人間にかかるストレスの度合いは違ってきているしメンタル的なストレスも比べものにならない程強くなっている。カイロプラクティックの先生にも聞いたことがあるが、30年位前はC1を調整すれば全身が調整できたので「ホールインワン・テクニック」と言われていたそうだが、現代は愁訴が複雑化してホールインワンとはいかなくなっているらしい。

操体にせよ同様だ。

40年前、30年前のものが現代にそのまま通用するのだろうか。勿論、基本的な理念は変わらねど、橋本先生が「快適感覚」「きもちよさ」という宿題を出されているのだから、快適感覚をききわけさせるという操体を皆でもっと学べばいいのではないかと思う。



更に言えば、逆モーション運動的な操法で、回数は3〜5回、たわめの間は3〜5秒、回数は3回〜5回、と決めてあれば「一般の人もやりやすい」とか、「体操的にできる」「一人でできる」というようになったのかもしれない。逆モーション運動なら快適感覚のききわけをする必要もないし、単に動いてみて「楽か辛いか」「痛いか痛くないか」「しぶいかスムースに動くか」という分析をすればいいからである。

言うなれば、極めて運動的、体操的な方法である。



しかし、その後操体は進化した。橋本敬三先生も晩年

「楽ときもちよさは違う」

「動きより感覚の勉強をしなさい」

と言われているのだが。



また、「快適感覚をききわける」という感覚分析は「最初は一人でやりにくい」場合がある。

なので、操者、介助者が必要になってくるのだ。



もっと言えば、「逆モーション的操体法」(運動分析的)なものは一人でもできる(動ける)。限りなく運動、体操に近いからである。



良くないのは「逆モーション運動的」なのに「快適感覚」とか「きもちよさ」という言葉を使うから、受ける人、本を読んだりする人が混乱するのだ。

「痛いか痛くないか」を聞いているのに「どっちがきもちいいか」と聞いているので、答えようがないのである。



快適感覚をききわけさせるのだったら、やはり最初は操者・介助者が必要だと思う。