そんなことはない、と思う・・
「もっと操体を簡単に考えたほうがいいんじゃない?」
「言葉の誘導とかにとらわれないほうがいいんじゃない?」
「連動なんかはきもちよくうごいてもらえればそれでいいんじゃない?」
・・・・・そういう話をする方の意見を総合すると
「間に合ってりゃいいんじゃない」
「橋本敬三先生は患者さんには『簡単だ』って言っていたじゃないですか」
らしい。
・・・・・・・
間に合ってりゃいいのは受け手のバランスだと思う。
操者の技量(知識や引き出し)が「間に合ってる」レベルでいいものだろうか。
受ける人が迷惑ではないか????
橋本先生は、患者さんには「簡単だから」と言われたらしいが、
弟子には「こんな難しいことに足をつっこんでしまったなぁ」
「(でも)操体は面白いぞ、一生楽しめるからな」と言われたそうだ。
最近この気持ちが分かってきた。
多分、
『上手い指導者が上手く介助すれば、簡単にできますよ』ということだ。あるいは
『上手い指導者に習って、早さや快適感覚のききわけかたを体感すれば、自分でも簡単にできるように
なりますよ』
ということなんだろう。後、患者さんに「難しい」と言ったら誰もやるまい(笑)
講習記録(新学期?編)
操体法定期講習会(臨床家向け講座)&指導者養成講座が始まった。今回は再受講者が多い。
面白くて、一年間でやめてしまうのは勿体ないと思ったのだそうだ。または、「塾操体」には定期的に出ているのだが、数年ぶりに、再度基礎から勉強したいというベテラン。
私も相当な回数出席しているが、講習の最初の数回行われる、理論編は何度聞いても勉強になる。
操体理論の中で、私が完全に説明できない事項があるとしたら、
「第七の天」が出てくる「太極」の部分だろうか。自分では理解しているのだが、もう少し勉強が必要だといつも思っている。
講義開始。
「理論を十分理解せずに、いきなり実技というのはワザやテクニックに走ってしまう」
「自分にだけ出来て、貴方たちにできない事は教えません」
「操体を学んで、どんなメリットがあると思いますか?」
「自分の意識を変革できる」
「如何に自分と向き合えるか」
毎回最初は参加者全員、「何を勉強したいのか、何を学びたいのか」を紙に書く。
操体理論で
「治すことまで関与するな」「症状疾患にとられれない」
という言葉にとまどいを覚える参加者は多いと思う。
「治し方を覚えに来たのに??」
普通、学校では○○にはこういうこと、△△にはこういうことをする、というように習う。なので当たり前なのだ。
最初は驚く。多分、腰痛を治す操法とか、首の痛みをとる操法とか、そういう事を覚えたいと思ったに違いない。
勿論私もそうだった。
でも、ある時わかった。
「症状疾患にとらわれないということは、なんてありがたいんだろう」
講習ははじまったばかり。でも最初から分からなくてもいいのだ。