操体法大辞典

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講習記録 八月初め

講習記録

土曜の臨床家向けの講習では、手関節の介助と補助が終わり、いよいよ足関節の介助補助に入る。

「抵抗」と言わず、「介助」というのには理由がある。抵抗、というと→←のようにお互いにぶつかり合い押し合っている感じだ。実際、橋本敬三先生の著作には「抵抗」と書かれている。その文字面だけを見て「抵抗」という言葉をも丸呑みにして「ぐ〜っと」「ぎゅーっと」と力をいれて押したりしているケースが結構見られるが、「抵抗」というニュアンスでやると、踏ん張るとか力(りき)むとか、クライアント自身はもとより、操者も力をいれてしまい、結局は疲れて脱力してしまった、などということもある。



なので、最近師匠は「介助」と言っているのだそうだ。



また、アメリカで1970年代に出版された「Sotai Natural Exercise」という本がある。この本には、二人(一人が受ける人、もう一人がやる人)で行う場合「Basic Sotai Exercise with helper」と書かれていて、なるほど、と思ったものだ。介助の目的は圧を与えたり、押したりするのではなく、

・動きの安定をはかる

・運動充実感

・連動を促す

・感覚のききわけを促す

というのが目的なので、まさに操者はhelperなのである。



言葉は「コトハ」「コトダマ」という語があるように、イノチの響きがこめられている。

また、「息食動想」の「想」をコントロールするには、

「言葉を統制せよ」「言葉は運命のハンドル」という橋本先生から師匠に伝わる教えも受けている。

『どうでもいい』とか『適当でいい』のではない。クライアント(患者、被験者)は操者の言葉の指向性を受けるので『ギューっと動いて』とか『ぐ〜っと動いて』というと、その通りに(ちからを入れて)動いてしまい、感覚のききわけではなく、ちからを入れて、その後力を抜いた時の感じを「快適感覚」と妙な混同をしている場合も考えられる。



日曜の講習



手関節の内旋。手関節の内旋、外旋、両手合掌は比較的よく用いる動診でもある。

これは立位でも分析可能だが、以前フォーラム(東京操体フォーラム)の出席者から「操体が立位でできるとは知りませんでした」という言葉を聞いたことがあり、こちらも「へえ」と思ったことがある。手技の世界では仰向けかうつ伏せが多いこともあり、腰掛位はまだ想像がつくものの、立位で行うというのは珍しかったのかもしれない。



介助と補助

メインの介助に対してサブの補助という感じか。

手関節の外旋における介助と補助、内旋における介助と補助、

更に両手合掌における介助と補助(数種)実技で行う。

受講生はまだ言葉の誘導に慣れていないのだが、今回の講習は再受講が多い。

なので、初めて講習に参加するメンバーと上手くペアを組んで進めていく。



言葉の誘導には細かく気を使っている。

いくつか気になったのが

・きもちよさが出てくる という表現。きもちよさは「あるのかないのかききわける」ものであり、

「気持ちよさが出てくる」という問いかけをすると「出そうです」とか、本来あるのか無いのか聞き分ける

ことが目的であるのに、ベクトルが違った質問になってしまう。

(ちなみに師匠は「きもちよさがでてくる」とは言わない)



・きもちよさがあるのかないのか確認していないのに「きもちよさを味わって」という誘導をしている。



動診と操法の過程を考えると、動診で感覚のききわけをおこない(動いてみて感覚をききわける)そこまでが

動診で、それから後が操法(きもちよさを味わう)となる。



操者が動きをとらせて、被験者(クライアント)から「きもちよさがあります」という解答を得ていないのに「きもちよさを味わって」というのは妙である。これは大切なポイントだ。



また、何年も前から受講生に言っているのは「とにかく最初は先生の言っていることを真似しなさい」ということ。



先生が「ず〜」とか「ぎゅー」とか「ぐ〜っと」という濁った音を使わないのに、使ってみたり(自分の講習の場合、濁った音を動診で用いるのは禁じている。明らかな地方性は別として、クリアな音で動診を行うのが望ましいからだ。これは東京ならではかもしれない)「目線」を「視線」と言ってみたり、そのあたりはちゃんとポイントをつかんでおきたい)。



何故かと言えば、経験を積むにつれて、「なるほど」ということがわかってくるからだ。自分なりのアレンジをするのは経験を積んでからでも遅くない。