「楽」と「快」の区別をつけないとどうなるか。
操体だけでは足りなくなる。
橋本敬三先生の著書の中で「きもちいい」という言葉が出てくるのは、マストから落ちた水夫の頭蓋骨陥没骨折の反対側を押したら、やけにキモチイイというので「それなら押してやれ」と押していたら、反対側の陥没していたところが盛り上がってきた、というところだと思う。
これが「きもちいいことすればよくなる」という記載である。(これは、左右比較対照の診断ではない。「これがきもちいいからやったら良くなった」という例である。
操体の中には2つ(あるいはそれ以上)の運動系の療法が混在している。
「痛い方から痛くない方に動かす」という「逆モーション」のやり方である。これはあきらかに二者択一で「楽」あるいは「つらくないほう」を選択している。
それが、いつからか「楽なほうにきもちよく動かす」とか、「楽」と「快」の混同が起こった。これが、現在の操体の世界をわかりにくくしているのだと思う。
実際「これ、きもちいい?」と聞かれれば「イエス」「ノー」で答えられることが多い。しかし、ある対なる動きを比較対照させて「どっちがきもちいい?」と聞かれても
わかりにくいのは当然なのである。
私は未だに「患者さんが、どちらがきもちいいかわかってくれないので、操体は難しい。どうすればいいですか」という質問を受けることがある。
これは「楽」と「快」の違いを認識していないから、起こる問題なのだ。
勿論私も二者択一の脱力を用いた操体もやることがある。しかし、
一つ書いておきたいのは、「楽」をききわけ、通す動診と操法と、
「快」をききわけ、味わう操法とでは、アプローチ方法が全く違うのである。
ここを混同すると、先程のように「きもちいいほうがわからない」という状況が起こるし、(昔は皆そう理解していたのだが)「可動域が大きいほうがきもちいいにちがいない」という操者の思いこみや、「比較的多くの人がきもちよさをききわけられるから、おそらくこの人にもきもちのよさを通せるだろう」という押しつけになってしまい、「本人にしかわからない感覚をききわけ、味わう」というところから外れてしまう。
よく思うのは、時代の流れである。
「万病を治せる・・」は、現在とは全く違う状況の中で書かれた。
今から30年位前は、カイロであれば、頸椎1番の調整で全部足りたとか、仙腸関節の調整だけだとか一部分の調整でも効果があったという。これは、体の不調が肉体的な疲れや無理から来ていた場合が多かったのではないか。現代、人間を囲む環境は激変している。「想」の部分を病む人が増え、最近では「うつ」の発症年齢が小学校1年生だとも聞いている。
これはどういうことかと言えば、愁訴の複雑化をしめしている。
つまり、「なおす」ということが、難しくなってきているのだ。
操体にしても、30年前には「楽なほうに動かして、脱力」ということで治ったケースも多いと思うし、私が最初に習ったのは、そういう操体だった。そういえば、橋本敬三先生にせよ、現役時代は動きをとれないリウマチの患者さんに苦労されていたと聞いている。動かせない、脱力させることができない(動けない患者相手には手が出ない)というのが操体の最大の盲点だった。
「楽」、「動き」のアプローチだけでは、対応しきれなくなってくるのである。
そうすると、「快」というキーワードがひときわ浮かび上がってくるのだが、「楽」と「快」の区別がついていないと、どういうことになるか。
操体だけでは足りなくなる。
これは痛烈に感じる。
今やっている自分の治療法に「痛くない方に動かして脱力」という逆モーション的な運動法を入れており、充分な効果が上がっているのならそれでよい。
しかし、操体をやっていて複雑になる愁訴に対応しきれず(つまり、「楽」と「快」の区別がついていない)、他の治療法を加える、というケースを結構見てきた。勿論、それが悪いとは言わないが、ちょっと勿体ないと思う。せっかく宝物が目の前にあるのにと。
逆に、それまでカイロやマッサージ系整体をやっていて、操体を勉強しはじめて、今までやってきたものをやめてしまった人も数多くみているのである。