先日の実行委員向けの勉強会で、師匠が橋本敬三先生がされていたという動診と操法をいくつか見せて下さった。どういうものかと言うと、
『動診をとおさなくとも、比較的快適感覚を味わいやすい操法』なのである。いくつか模範実技を見ていくうちに『ははん、これが”一極微”の原点かも』と思ったのだ。
橋本敬三先生の本の中に『マストから落ちた男』というものがある。函館で開業していた当時、船のマストから落ちた男性がおり、頭蓋骨が陥没骨折していた。陥没した頭蓋の反対側に少し盛り上がったところがあり、そこを押すと大変きもちがいいということで、「きもちいいなら押してやれ」と、押しているうちに、陥没したところが次第に戻ってきたそうなのだ。
勿論、こんなことは医学書には書いていない。これが『きもちよさでよくなる』という考えが現れた時である。
また、これは「きもちいいことすればよくなる」ということであって、比較対照しているわけではない。
話は戻って
『動診をとおさなくとも、比較的快適感覚を味わいやすい操法』だが、説明どおり、『どちらが辛いですか、楽ですか』と、聞かないのである。例えば前屈、後屈、書籍の中にも出て来るが、第七頸椎に操者の手根を当て、脊柱を腰のほうから天井に向かって伸ばさせる、患者の足を操者の膝に乗せ、腰が浮くように踏み込ませる等である。また、これらの動きに共通しているのは、末端からからだの中心腰、腰から全身へと動きが連動しているということだ。
更に、これらは必ずしも瞬間急速脱力を患者に要求するものではないこともわかった。前屈や後屈などは、『風船玉から空気が抜けるように』というように脱力を促していたらしい。
なるほど、こういう操法であれば、きもちよさを味わうことができる。これが『一極微の原点か』と思った所以。
こうやってみると、橋本敬三先生がされていた操法もいくつかに
分類することができることがわかる。
1.動診をとおさなくとも、比較的快適感覚のききわけをとらせやすいもの
2.対なる動き(楽か辛いか)を比較対照して、辛い方から楽なほうに動かして、瞬間急速脱力するもの
3.辛い動きを取らせて、そこから逆モーションをとらせるもの(意識的に辛くないコースに乗せる。この場合、不快の反対が快であると想定して、『快適バック運動』と言う場合もある。不快の反対が何ともない、楽な場合でも『快』としてしまっている節がある。また、不快の反対が『楽』だった場合、患者は『きもちよさを探して色々動いてしまう』という可能性も考えられる。
4.最大圧痛点を押し、逃避反応で圧痛硬結を解消するもの
5.圧痛硬結を確認し、末端関節の瞬間急速脱力において、その圧痛硬結を解消するもの
である。
この中で、一番有名なのが「2」であろう。膝二分の一屈曲位での膝の左右傾倒などはこれにあたる。動診としては対なる動きの比較対照で、『第一分析』は主にこれ指す。
3は『逆モーション』運動。これは先日仙台の全国操体バランス運動研究会で、奈良の北村先生が発表されていた。患者さんには手を触れず、指導者が口頭で自力自動に導くものだ。
これは北村先生の関西的なノリ(東京のノリではない!)で『なるほど』と感心した。師匠や私も被験者に手を触れず、口頭で操体の指導を行うことがあるが、逆モーションではなく、一極微である。その辺りのアプローチが違うのは面白いと思った。
また、このアプローチは『快適バック運動』とも言われるが、橋本先生が、『楽と快は違う』と言われる前の表現だと思う。何故なら、バック運動が必ずしも快適とは限らず、単に『楽』『痛くない』ケースのほうが多いのではないか。
また、この辺りの混同により
『痛みから逃げる』が『きもちよさを探す』になった感もいなめない。橋本先生は『きもちよく動けばよくなる』『きもちのよさをききわける』と言われているが、『きもちよさを探す』『探る』とは、言われていない。
4.これは無意識の動きを(逃避反応)を用いて整復コースに乗せるもの。『いてててっ』と、無意識に逃げるわけなので、『快適バック運動』ではない(笑)。クライアントの膝窩ひかがみの圧痛硬結の触診をした際、『いてててっ』と、逃げる動きを
とる。私達はそれをしっかり見ていて『あ、膝を右にひねる動きが整復コースかいな』とチェックしているわけだ。
5.の例をあげると、仰臥膝二分の一屈曲位 足関節背屈。膝窩ひかがみを触診し(ちゃんと触診の作法がある)、足関節をつま先から背屈させ、脱力に導く。膝窩の触診をするのみであり、感覚のききわけは行わない。
ざっと考えてみても5つ程あるが(他にもあったらお知らせ下さい)、一番ポピュラーなのが「2」であることは間違いないだろう。
それに加えて「1」のような、第二分析(一極微)の原型とも言える操法では『きもちよく動いて』(あらかじめ、きもちよさがききわけられやすい操法を設定)と言ってもおかしくないだろう。
これが『楽』と『きもちよさ』を混同する一因となったのかもしれない。