操体法大辞典

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操体を再考する:快適感覚をききわけ、味わう、からだにききわける

なぜ、「きもちよさがでてくる」「きもちよさを探して動く」ではないのか??



この問題に関しては、何度も書いている。

講義で実際に受けていただいて、体感していただくと「分かりました」と言っていただける場合が多い。しかし、中にはなかなか理解しがたいという顔をされる方もいる。



何故なのだろうか。



「快適感覚をききわけ、味わう」「きもちのよさをききわければいい」これが操体の「核」とも言える理念なのだが、何故それが理解し難いのか。私には不思議でならなかった。



しかし、何故理解し難いのか分かったのである。



それは、その方が「からだにききわける」というキーワードを体感していないからなのだ。



「出てくる」というのは「きもちよさ」が主語である。「ききわける」というのは「からだ」が主語である。



この違いを理解していただきたいのだ。でてくるとか、わいてくるとか、そういうものではない。橋本敬三先生が言われたように「ききわける」ものなのだ。『快適感覚をききわければいいんだよ』という言葉をよく咀嚼して欲しい。



また、「きもちよさを探して動く」のがペケだというのも何度も書いているが、操体で言う『きもちのよさ』とは、相手(操者)から与えてもらうものではない。そういう理解をしていると、操者に対して『私はもっとこうやってもらったほうがきもちいい』とか『私はこういうほうが好き』とかね『私がなにかやってもらう』という受け身の姿勢でリクエストをしてしまったりする。これは「からだの要求」ではなく、「アタマ」の要求だ。



受け身の姿勢であるということは、きもちよさというものが、どこかから出てくるとか、誰かが与えてくれるものだという理解をしているので『きもちよさが出てこない』とか『探す』になる。



そして、『からだにききわけない』で、『アタマ』(私)がききわけているから、『出てこない』とか『探す』ということになるのだ。



そう言う場合は『からだにききわけ、味わう』ということを、体感しておられないのだ。



つまり、心の中ではまだ『きもちよさとは誰かが与えてくれるもの』『きもちよさとはどこからからやってくるもの』『きもちよさとは「からだ」がききわけたきもちよさではなく、「私」が欲するきもちよさ』という理解をされているのかもしれない。





「からだにききわける」

「快適感覚をききわけ、味わう」



この意味をよく味わって欲しいと思う。