操体法大辞典

操体の専門家による、操体の最新情報など

断る力(勝間和代氏新著)

断る力 (文春新書)

断る力 (文春新書)


確定申告がやっと終わり、時間ができたので二週間ぶりに書店散策をした。高島屋地雷也の天むすを買って、桜餅を買ってから丸善へ。春先になれば、銀座Apple Store、伊東屋八重洲ブックセンター丸善高島屋という散歩コースが復活するのだが、今は何せ寒い。日本橋だったら丸善高島屋(デパ地下しか行かないけど)なのだ。

特に何を買おうか決めずにふらふら歩いていたら、勝間和代氏の新著を発見した。そういえば、彼女が書籍で勧めている本が復刊されたり、改めて売れているらしい。

さあ、才能(じぶん)に目覚めよう―あなたの5つの強みを見出し、活かす

さあ、才能(じぶん)に目覚めよう―あなたの5つの強みを見出し、活かす


ビジネス・ゲーム―誰も教えてくれなかった女性の働き方 (光文社知恵の森文庫)

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史上最強の人生戦略マニュアル

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最後の本などは、勝間氏が改めて翻訳まで出している。

ちなみに私は勝間氏の本は殆ど読んでいる。共感出来るところが多いからである。何故共感できるかというと、新しい女性の在り方なのではないかと思う。彼女は前著でそれまでの「働く女性」を二つに分けて示していた。一つは土井たか子氏や森山真弓氏に代表されるような、仕事一筋の方々(私は尊敬してますが)。あるいは「美人女医」とか「美人区議」とか、『美人』に代表されるように『女子』を売りにしている方々(悪いとは言わない。美人も才能のうちだから)。今まではこの二つに大分類されていたのだが、第三番目の分類として、「男性的なところと女性的なところのバランスがとれている、アサーティブな能力を持つ女性」(アサーティブとは:自分も相手も大切にした、誠実で率直で対等なコミュニケーションの方法、賢い自己主張)を挙げたところだと思う。

アサーティブという考え方は最近よく紹介されているが、女性には必要な知識ではないかと思っている。

「断る力」は、アサーティブにも深く繋がってくる。


第一章 総論 「断る力」の圧倒的な効用を理解する
第二章 ホップ 自分のゆるぎない軸を持つ
第三章 ステップ 相手への建設的な影響力を発揮する
第四章 ジャンプ 「断る力」で自分と周囲との好循環を作る

私が「断る力」の大切さを感じたのは、離婚した時の事だと思う。
そのままヨメに行ったままだったら、今の操体臨床家としての私は絶対存在しないと思う。後追いで操体を勉強し始めた元パートナーは、私の操体にかける情熱に嫉妬して、その操体の直系の継承者であり、私が操体を学ぶきっかけとなった本の著者である私の師匠の才能に嫉妬した。その嫉妬の輪を断ち切るためのベストな選択だったと思っている。これは婚姻関係の存続を「断った」のである。まあ、断ったからといって結婚している期間が無駄になったわけではなく、色々社会的勉強をさせていただき、少しはいい思いもした、と過去の糧にしている。

「断る力」で、思うのが、我々の場合、クライアントの都合にばかり合わせてしまうということがある。私も開業したばかりの頃はクライアントの都合に合わせて営業していた。講習も受講生の都合に合わせた個人レッスンをしていた。今では相手の都合に合わせつつも自分のスケジュールも大切にする、という事に慣れたので不都合はないのだが、最初はどうしても自分の都合を二の次にしてしまうことが多い。
そうすると、クライアントに対して無意識下で不満を抱くのである。これがいいわけがない。
うちの師匠は『患者の都合に合わせるな』(からだの都合に合わせろ、ということ)と言う。また『クライアントが我々を選ぶ権利があるように、我々もクライアントを選ぶ権利がある』とも。
(蛇足だが、急な電話などでこちらの都合を無理矢理曲げてアポイントを入れてくるクライアントに限って、初診をドタキャンするのは非常に不思議なことだ。これは私だけでなく、周囲の仲間もそうだと言っているので、おそらく事実である)


また、いつも思うのが彼女が使う「定量化」という手法だ。
例えば「努力」というのは通常『がんばる』『根性をいれる』というような精神論でくくられがちだが、勝間氏は「努力」を定量化している。この点はいつも感心するところなのだ。

◎努力=使った時間配分量
つまり、誰もが平等に持っている24時間を、その事柄に対してどれくらい時間配分したか、ということだ。

そして、端的にまとめているのが

◎自分がそういった時間配分をしてもいないのに、他人が得意なことをうらやましがってもしようがない
◎どの分野が得意か不得意かというのは、自分のこれまでの時間配分の結果である

この2点である。

例えば、うちの師匠は操体臨床の第一人者であり、創始者橋本敬三先生の直弟子である。操体臨床一筋40年以上。なぜ、師匠が第一人者で有り得るかと言えば、18歳の頃から続けてきたその時間配分だということは納得出来る。

しかし、その努力の末に得た能力に対して、嫉妬の炎を燃やす輩が多いのも事実なのだ。また、橋本敬三先生は師匠を荒波の中でもませたかったのか、例えば東京に滞在する際は、ご子息(故橋本保雄氏)が勤めておられたホテルオークラが定宿になっていた。そこに橋本先生のファン(『温古堂先生』はファンが多かったのである)が集まる。そういう時に、橋本先生は師匠を呼んで『三浦、お前めんこいから小遣いやる』と、ファンの目の前でお小遣いをくれたりしたのだそうだ。また、操体を勉強したいと仙台の橋本先生のところに行くと『東京に弟子の三浦がいるから、三浦のところで勉強しろ』と言われるので、年下の師匠のところに勉強に行った方々も居られる。そのような方のお一人は酔った時に『本当は橋本敬三操体を習いたかったのに、橋本先生には東京の三浦のところに行けと言われた』と騒いでいた。この方などは、端で見ていると、師匠に対する嫉妬の固まりなのである。ご本人は気がついていないと思うが、私が見る限り、この方の額には『嫉妬』の文字が張り付いているのである。

「嫉妬」という字は「おんなへん」だから、女性の専売特許のように思われがちだ。しかし、男性の嫉妬もすごいと知人に聞いたことがある。これが「好敵手(ライバル)」として、お互いを高める原動力になればいいのだが。

嫉妬といえば、勝間氏は『妬む・怒る・愚痴る』を三毒追放として実践していると書いておられるが、これはいつも共感する。どうしても少しは愚痴ったり怒ったりはするが、『妬む』はもう少しコントロールできるようになった(笑)
これは、操体で言う『息食動想』の『想』にも深く関わってくると思うのだ。

例えば、操体をやっている方々で『感謝』という言葉が好きな方々がおられる。しかし、私だけかもしれないが、『感謝の念』とか『みんな仲良く』と言葉にされる割には、その行動の端々に『嫉妬』が見えるのである。『嫉妬』という感情を後ろに隠して『みんな仲良く』とか『感謝』と言う位だったら『みんな仲良く』とか『感謝』と言わずとも、『嫉妬』を追放すればいいのでは?と思ったりもする。
こういう方々は、見かけだけは善人ぶっているし、言うことは社会規範には反していないが、中に潜んでいる「嫉妬」の心は隠すことができないのである。

また、私も「嫉妬」の被害に遭ったことがある。
思い起こせば小学3年の時、転校した新興住宅地の小学校で何故かいじめられた。後で聞いたところ『いい服を着てるから』と言う理由だったらしい。母親が子供服を作るのが好きで、そういう服を着ていたかららしい。その後、裏に住んでいるお姉さんが行っていた(そんなものだ)ということで、私立の女子中を受験したら受かってしまった(笑)そういうわけで、私は中学から大学まで女子校通いをするのだが、この時母親は近所の同級生の「おかーさま」達に『私立に入れるなんて、お金持ちねぇ』と、イヤミをたっぷり言われたそうである。
(しかし、このイヤミを言ったおかーさま達も、その数年後、子供を受験のため塾に行かせたり、大学受験で予備校に行かせたり、私立高校や大学に行かせたりしたのだから、使ったお金と「高校受験」「大学受験」の気苦労を考えたら、トントンではなかろうか)
ちなみに、中学から私立に行って近所の小学校の同級生とは浮いていた私に親は何だか懲りたようであった。私と言えば、小学校の同級生、特に男子は「ションベン臭い」(失礼)と思っていたし、当時既にロックと英語と少女マンガとヨガとかリフレクソロジーなどに凝っていた私にとって、バスと電車に乗っての通学と、新しい環境は別世界で非常に楽しかったのである。
これが『お金持ちねぇ』から後に『エレベーター式で(進学できて)いいわねぇ』になったらしいが(笑)

それから長じて、一番激しい嫉妬の対象になったのは、師匠のファンクラブの方々である。
操体を勉強しにくるのではなく、ファンクラブなのである。何をされたかここでは書かないが(笑)、この方々のお陰で鍛えられた。
私は自分が「努力」したと思っていたし、実際努力していた。一日のうち、操体にかける時間を考えるとまさに先程の定量化の図式と合致する。起きている時間の九割を操体に向けていたのだ。

◎努力=使った時間配分量

それを努力もせず、「ファンクラブ」や「お稽古事」のつもりでやっている方々には負けるわけがない。

『なぜ嫉妬と断る力が裏表かというと、実は「依存心が強い人」は「嫉妬心が強い人」だからなのです。そして、他者評価を気にする、他人の目を気にすれば気にする人ほど、他人の言葉から傷つきますし、他人に対して嫉妬をすることになります。また、加藤先生(加藤諦三氏)は嫉妬が強い人は人の努力が認められず、劣等感を克服するために更に相手を批判・妬み、それが劣等感を助長する悪循環をもたらしていると指摘します』

だからと言って、『みんな仲良く』のなあなあで『何をやってもいいじゃない、人それぞれなんだから』という極端に走っても良くない。自分の意見(借り物ではなく、自分の頭で消化した意見)は言うべきなのだ。
私は以前から「日経ヘルス」誌に掲載されていた某W先生の記事に対してブログで批評を加えていた。それは何故かと言えば、『操体ストレッチ』などという造語を作り、『野口整体が専門で、操体についてはそれほど高い関心は持っていない』という方が、まるで「操体法」の創始者のような書かれ方をしていたので、日経ヘルス誌にその旨と、細かいところの訂正を訴え続けた。日経ヘルス誌が「操体法は仙台の橋本敬三医師が創案』と記載を始めたのは、私がクレームをつけはじめてから1年半以上経ってからだが、最初私の周囲の『穏健』な仲間達は『そんなに書かなくても』と思ったらしいが、私にとっては命以上に大切な操体である。それを『操体には大した思い入れはない』(操体の専門家でない)方に、公共のメディアを使っていただくのは疑問があったからである。

自分のブログに日経ヘルス関係の記事を載せた時は一気にアクセス数がアップしたが、おそらくW先生の周囲においては、私は「非常にイヤなヤツ」だったであろう(笑)しかし、『みんな仲良く』『何をやってもいいじゃない。人それぞれなんだから』という逃げの言葉で真実から逃げ、嫌われるのを恐れるほうが余程からだに悪そうな気がする。