操体法大辞典

操体の専門家による、操体の最新情報など

操体をどうやって説明するか??

先の東京操体フォーラムで、私は「操体をどのように説明するか」というテーマで発表した。勿論明確な答えは出せるわけがない。巻上公一相談役からは。『このテーマが解けたらお終いだよね』『これが解けないから芸術なんだ』というコメントを頂いた。



確かに難しい。



去年秋、全国大会に参加した際、操体界では割とベテランの先生方が、「どちらがきもちいいか」という言葉を多用している、あるいは「きもちよさを探して」と言われていたが、非常に残念であった。

しかし、そのような言い方をしていたのは『私は操体専門じゃないから』と公言している方だったりして、納得もした。

実際操体以外の各種療法で著名な方なので致し方あるまい。それに附随しておられた操体では古参の先生も、操体で効かない場合は某療法をしているというのは有名な話なので「そっか」という感じであった。



「どちらがきもちいいですか」「きもちよさを探して」という指導、あるいは動診(診断)をスキップして「きもちよく動いて」という指導をしている方々は『操体専門』ではない。別に悪いとは言わないが、操体と一緒に各種療法を混ぜている。



操体専門で橋本敬三先生のセオリーを守って『きもちよさをききわける』と言っている操体専門家よりも、他の各種療法を合わせてやっている『専門じゃない』方が「別にきもちよさを探せ、っていってもいいじゃん」と平気で言うのだ。

ホント、操体の専門家よりアマチュアのほうが威張ってるんですよこの辺は。



あ?すいません、怒り入ってます?(笑)



操体は「きもちよく動く」だけでは言葉足らずだ。きもちよく動くのは「操法」であり、その前の「診断」つまり動診が抜けている。



「からだの声を聞く」これもハズレではないが、「聞く」だけなので「治療」が抜けている。診断だけしておいて治療をしないというのは臨床にならない。



快適感覚をききわけ(動診:分析・診断)、味わう(操法:治療)という過程が必要だ。



「きもちよく動く」前に、分析(診断)が必要だ。



ある目的ある動き(多くは末端から)をゆっくり試してみて、快適感覚がききわけられたら、そこからが操法(治療)になる。



こうやって考えると、「きもちよさを探して動く」のが妥当ではないということが解るだろう(いつも書いてますけど)。

きもちよさを探して動く、というのは動診と操法を混同しているのだ。

「秘伝」の方が取材に来ておられたので、その辺りも詳しく話したのだが、武術などでは「探す」という言葉を使うらしい(平相談役が修行中の太気拳では、「探す」という言葉を使っているそうだが)。それはそれでいい。一派立っている流派なのだから。要は区別をつければいいのだ。この区別をつけられるのが、プロだ。



あと「快を探す」という言い方をしているケースも聞くが、これも同様の理由で妥当ではない。

操体では使わない。「快適感覚をききわけ、味わう」のだ。



★身体能力が優れた方は、「動けてしまう」。しかし、クライアントはまず動けない。自分ができるからと言って症状疾患を抱えたクライアントに強要してはならない。これが大きな問題だ。強要するから「操体はわからない」とか言われてしまうのだ。



また、武術と操体を組み合わせてもいいのだが、その境界(動診と操法の区別、楽と快の違い)が分かっていないのはやはりよくない。分かっている人はちゃんと分かっている。

なので「きもちよさを探して」とは言わない。



何度も言うが『きもちよさを探して』という指導をしている方は、動診と操法の区別がついていないか、自分が『きもちよく動けてしまう』あるいは『動くとすぐキモチイイ』というような身体性を持つ方である。



・連動を無視する(動きなんてみんな違う、という)

・ボディに歪みがあると、不自然な連動になるということと、歪みが正されると自然な連動になることを知らない

・連動を無視するので、末端から動かない

・からだの中心腰から動く(なので、末端が動いて、からだの中心腰が動いて、首が動いて全身形態が連動する、ということをしない)

・あるいは首から動く

・連動を無視しているので、言葉の誘導がいい加減である。末端から介助を与えるのだったら

『(介助を与えて)小指を効かせて右手の平をゆっくりと外側に廻して頂けますか?肘が下がってきて、肩が下がってきて、反対の体側が伸びてきて構いません、腰で、背中で全身で表現してみてください・・・・ゆっくりと、よく感覚をききわけて』



と末端から動きを誘導して感覚のききわけをとらせるのだが、連動を無視すると、末端を固定して、「はい、きもちよく動いて」と、腰から動かすしかないのである。末端を固定しているのだから、腰で表現するか、末端の首をぐるぐる動かすしかない。言葉の誘導のボキャブラリー不足だ。



・動診と操法の区別がついていない

・楽ときもちよさの区別がついてないない

・連動の不理解とボキャブラリー不足



我々が行う動診でも、末端からの動きでは快適感覚がききわけられない場合、からだの中心腰から動きをとらせる場合もある(逆連動)が、末端、中心の両方からアプローチすべきなのだ。からだの中心腰からだけでは片手落ちだ



一度その系統の方に「きもちよさを探して色々動くんじゃないよ」と言ったところ、『そういう操体があってもいいじゃないですか』という捨て台詞を吐かれたことがあるが、それだったら操体と名乗らなければいいのに、未だに操体を名乗っておられる。

私はこのような方が「○○式操体」とかオリジナルを作ってくれれば何も言わないのだが、いかんせん操体を名乗っている。



同志の一人に聞いた話だが、そこのクライアントがあるところに操体を受けに行ったところ、膝二分の一屈曲位でゆらゆら揺らされて「きもちよさを探して〜」と言われたらしい。申し訳ないが私はそれを聞いて思わず『うぷぷ』と笑ってしまった。

同志は「それでわかりましたか?」と聞いてみたが「なんとなく」という答えが返ってきたそうで、その後同志のところで『快適感覚をききわけ、味わう』のを体験したら『全然違いますね〜』という感想が返ってきたのだそうだ。

まあ、膝をゆらゆらされるのはそんな不快ではあるまいが、味わってみたいというからだの要求を高度に満たすモノではなかろう。



いつも思うのが、私はクライアント、あるいは操体を受けたいと言う方に対して『快適感覚』というものを味わって頂きたいからこうやって書いているのだと思う。



というか、数ある操体のサイトの中からこのブログに辿りつき、お目にかかるというのもご縁の内だと思う。このブログを読んでいる貴方は運がいいのである。



一度味わうとわかるが、「快適感覚(きもちのよさ)で治る」というのは衝撃的な体験だ。そうすると、小手先のだましテクニックは「からだ」には通用しない。



て、結局『操体をどうやって説明すればいいか』というのはやはり『解けないナゾ』なのかなと思ったりする。しかし『快適感覚をききわけ(動診:診断)味わう(操法:治療)』というのは間違いない。