操体法大辞典

操体の専門家による、操体の最新情報など

『渦状波』とコトバの使い方

全然気がつかなかったのだが、「最近『渦状波』ってコトバを使ってるホームページ、たくさんあるよね」という話を聞いて、ちょっと調べてみた。

すると、いくつか出てきたのだが、世の中には『皮膚に触れる分析法』を『渦状波』と言ってるケースもあるようなのでちょっと驚いた。



『渦状波』というのは、師匠、三浦寛先生がその著書 快からのメッセージ―哲学する操体 で、発表したものである。この本が出たのが1999年、全国操体バランス運動研究会東京大会開催の日だったので、出版されてからかれこれ10年になる。



10年もすれば、渦状波も進化するのは当然で、その進化状況はその後の 操体臨床への道しるべ―快適感覚に導く診断と操法 などにも記されているし、今年の年末あるいは来年の年初に出る予定の新著にもっと詳しい内容が発表されるはずだ。



さて、ここで私がクリアにしておきたいことがいくつかある。

それは、『渦状波』は、刺激ではなく、皮膚への接触である、ということだ。この場合の接触は『皮膚のあそびの範囲内』と思って頂ければいい。逆に『押す』『ずらす』『ひっぱる』『つまむ』『ねじる』『しぼる』というのは刺激である。接触と刺激は、神経的にみても伝達回路が異なり、触れているのだから皆同じ、と一括りにするには繊細すぎる回路なのである。

刺激と接触の一番の違いを考えると、刺激(例えば捻るとか引っ張るとか)は、快か不快か瞬間的にわかる。逆に「接触」は最初は快か不快か、そのどちらでもない感覚がつく場合が多い(これを三浦先生は『予備感覚』と命名)。



どこかで『渦状波』を『三浦先生版カワの操法』と書いてあったがこれは大きな勘違いである(師匠自身『渦状波はカワじゃないっ。皮膚だ』と言われていた)。



渦状波を理解するには、最初に「皮膚」と「皮」の違いを認識する必要がある。猫を抱いているとその骨格と、それに張り付いている毛皮の隙間を感じ、「ああ、これが皮だな」と思う。また、赤ちゃんを抱いたりして、その皮膚に触れるとき、私は「皮」というコトバを使う気にはならない。

いずれにせよ、師匠は「皮膚に接触する」というスタンスで皮膚に向かっているわけだ。



また、言語から受ける直感的印象から言っても

接触 → 皮膚

刺激 → カワ

というのは何となくわかる。



★前にも書いたが、誰かが「肌の操法」と言った。これな何故かエロな感じがするのは何故だろう(笑)

って、考えてみたら『肌を合わせる』とは言うモノの、『皮膚を合わせる』とか『皮を合わせる』とは言わないからだろうか?

言葉って微妙である。



今先生と丸住先生の共著で、丸住先生は「カワ」というコトバを使われているが、三浦先生は『皮膚と皮は違う』と言われた。

(これは考え方の違いということで、どちらがどうのこうのという訳ではないが、私は「皮膚」派なのである)



また、一昨年の夏、医道の日本誌の対談で、今先生と三浦先生が新宿の医道の日本社に集まった際、私は同席し、写真を撮っていた。その時、両先生の「皮膚に対するアプローチ」を実際に受けてみたのだが、今先生と三浦先生のは全く違うのである。

どちらもきもちよさがききわけられたのは勿論であるが、今もう一度感覚の中で再現してみると、今先生のは『外側が動く』、師匠のは『内側が動く』という感じだった。



なので、皮膚に触れているからといって全部一緒にするわけには行かない。



実際、「皮膚」だと思って触れるのと、「カワ」だと思って触れるのとでは感覚が違うはずだ。



・「カワ」が良くないと言っているのではなく、「皮膚」と「カワ」の区別をつけよ、その違いを認識して使い分けよと言っているのである。



・分からずにごちゃ混ぜにしてやっているのが一番いけない。その場合、一番迷惑するのは患者様だ。



・「知っていて、分かっていてこだわらない」というのがオトナの分別だ。



★★★『渦状波の操法』というのは言い方は・・・



「渦状波の操法」という言い回しをみた。

現在、操体法東京研究会では『第一分析』(楽か辛いか)『第二分析』(ひとつひとつの動きに快適感覚をききわけさせる)、第三分析(皮膚へのアプローチ)を研究している。実際は第9分析以上あるのだが、一般的に公開されているのは第三分析位までである。この中の『第三分析』の中で用いられる『分析法の名称』が、渦状波なのである。どの手技療法でも『診断・分析』があり、その後に「治療・施術」が成り立つわけだが、渦状波はその分析法にあたる。渦状波はあくまで「診断・分析法」なのである。「渦状波を与え(診断)、快適感覚がききわけれたので、味わっていただく(操法)」というように、動診(診断)と操法(治療)の区別をつけるべきなのだ。