操体法大辞典

操体の専門家による、操体の最新情報など

操体で自分を治すとは?操者(指導者)の役割。

先日のゴールドジムのセミナーの後、実行委員の一人、森田珠水さんから聞いたのだが、参加者の中に、動くのも大変な状態で、痛みをこらえて参加した方が居られたらしい。

私は直接お話したわけではないのだが、背中の疾患を抱えておられ、今まで鍼などで治療を続けていて、その日はやっとのことでセミナーに参加して頂いたということだった。

話を聞いていても痛々しい限りだったが、もっと心が痛んだのは、その方が『操体は自分で治せるから』と参加されたという話を聞いたからだった。



このような場合は、無理せずに、専門家のところに行って、自力自療が叶うまで回復してからセルフメンテナンスをしてほしい。

まずは「自力自療可能」なレベルまで戻るのが先決である。



そのために操体の専門家がいる。

操体の専門家は、どうすれば快適感覚をききわけ、味わうことができるのか、その勉強をしている。

また、快適感覚をききわける力に優れている方(原始感覚が鋭い)は文字通り『快適感覚をききわけやすい』のであるが、一般人はその力が鈍っている(だから、病気になったりからだを壊したりするのだ)。なので、最初は専門家の助けが必要なのだ、ということを理解して欲しい。



操体は自分でできるのに、何故プロがいるのですか?』と聞かれることがあるが、簡単に言えば『自分でできない方を助けるため』である。



よく言うのだが、指先を切った程度なら、絆創膏を貼ればいいが、骨を折ったとか、腕を切断した場合は救急車を呼ぶか、病院に行くだろう。自力自療がかなわない状態に『自分でできるから』と対策を考えるのは、目の前に病院があるのに、折れた骨を押さえて、「自分で治せる」と頑張って辛い思いをして、途方に暮れているいるようなものなのだ。



『自分でできる』『ひとりでできる』というのを操体の謳い文句にしているような宣伝の弊害がある。



宣伝文句で「操体は一人でできる』『自分でできる』というのを売り物にしているのは、『○○を覚えれば骨折も腕の切断も動けば自分で治せますよ』と言っているのと同じだ。

厳しい言い方かもしれないが、自力自動が可能(自分で動いて感覚の分析ができる)程度の、比較的健康度の高い方しか診ていないのだ。

もしも、動けない方がいらしたらどうするのだろう。

そう言うときこそ、操者の出番なのに。



自力自療が叶う(自力自動が可能で、快適感覚のききわけが可能)でない場合は、操者の存在が必要である。



『自力自療』というのは、一人でできるとか、自分で動くという意味ではない。本人にしか分からない感覚をききわけ(動診:分析、診断)、味わう(操法:治療)をクライアント自身が行うので、『患者(クライアント)自身が医療者の立場に立つ』なので、「自力自療」というのである。



この場合、操者が手助け(介助、補助、言葉の誘導や動診の選択)をしても、感覚をききわけ、味わうのはクライアント本人であるから、「自力自療」なのだ。



『自分で動ける』とか『自分で動く』とか『一人でできる』のが操体だったら、何でも操体になってしまう。



そしてこのような表現は『動けば治る』とか『動きを組み合わせれば治る』という誤解を生む。更に、『動いてみて、きもちよさをききわけられるか試す』という動診の行程をスキップして『きもちよく動けば治る』という短絡的な表現をされる場合がある。



操体は『自分で動けば治る』いうのも

『自分で動きを覚えて組み合わせれば治る』

『動くと(必ず)きもちいい』というのも

『動くときもちよくなる』というのも誤りである。