操体法大辞典

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操体臨床ではなぜ「きもちよさを探す」「きもちよく動く」では不十分なのか?

操体臨床では何故「きもちよさを探す」と「きもちよく動く」では不十分なのか?



これに関して補足しておきたいのが、「操体を適当にやっている」とか「何かとミックスしてやっている」とかだったら、該当しない。私はそこまでは踏み入ろうとは思っていない。



あくまで、「操体の臨床」に限って言っているのである。



操体の臨床とは何か。それは『診断(分析)』と『治療(操法)』が存在する。この二つがあるが故に『臨床』が成り立つ。



また、操体臨床のステップを考えると

・(からだで)感じる(分析・診断)

・からだで「快・きもちのよさをききわける」(分析・診断)

・そのきもちのよさに委ねる、味わう(操法・治療)



この三段階となる。ここで「きもちよさをさがす」というのは、言葉で書くと違和感はないかもしれないが、例えばマットレスのある広い部屋にとおされて、いきなり「きもちよさを探して」と言われたらどうだろう。



途方にくれませんか?あるいは、自分が今までやってきた経験のある動きを色々やることになるのでは?

また、セミナーや講習で「きもちよさを探して動いて」という指示を受けると、ほぼ99%は「?」となる。



つまり「きもちよさを探して」というのは、分析(診断)になり得ないのだ。



中にはストレッチ的なキモチヨサとか、伸びてきもちいいという場合もあるかもしれないけれども、もしもアナタがぎっくり腰とか、寝違えで動きがとれなかったらどうするのか??



これは「痛くないポジションをとる」とか「痛みから逃げる」なら分かるけれど、「きもちよさを探して」と言われてもピンと来ないほうが多いはずなのだ。





先日も書いたが、身体能力に優れている方(原始感覚に優れている)は、「きもちのよさをききわける」能力に長けている。だから健康な方が多いのだと思うが、無意識のうちにこの力を発揮しているのだ。

しかし、そういう方は一般の、それも「原始感覚が鈍っていて、だからからだのバランスを崩している」、きもちよさをききわける力が弱っている方の状態がわからないことが多々ある。



なので、操者がある程度の道筋を示し、そこから「感じ」「きもちのよさをききわけ」「それをあじわう」という指導をするのだ。操体の指導者は「治療」をしているのではなく、「指導」をしているのだ。



なので、きもちよさを探して色々動くのではなく、ある動きを、目的を持って試し、その動きの中に快適感覚をききわけることが大事なのである。



また、何故「きもちよく動いて」では不十分なのかと言えば、辛い場合、どこかに故障がある場合、または動き方がわからない場合(操者の適切な指示がない場合)に「きもちよく動いて」と言われても、動きようがないのである。

また、実際に「きもちよく動いて」という操者の指示に対して、受け手は「きもちよく」ではなく「痛みから逃げている」だけにすぎないこともある。



「きもちよく動いて」という言葉が有効なのは、

ある動きを試してみて、きもちのよさが聞き分けられたら、つまり、動診(分析)から操法(治療)に移行したその後である。

きもちよさが聞き分けられたその後だったら「きもちいい」のだから「きもちよく動いて」と言っても言い。

一番いいのは「きもちよさを味わって」「委ねて」という言葉だと思う。



最初から「きもちよく動いて」というのでは、動診と操法の区別がついていないのである。