第1分析(対なる動きを比較対照して、辛い方から楽な方へ動かし、瞬間急速脱力を促すもの)
★言葉だけは「快」を用いているが、実際は「楽」をききわけさせている「1.5分析」もある。あるいは「第1分析もどき」(筆者仮称
命名)
第2分析(一つ一つの動きに快適感覚の有無をききわけさせ、快適感覚がききわけられたら、それを味わう)
第3分析(皮膚への接触により、感覚をききわけ味わうもの
本当は第3分析以降もあるのだが、今は便宜上この3つをあげておく。
「1.5分析」は、現在操体を学んでいる、あるいは興味を持っている方々を迷わせている諸悪の根源である。
『楽』しか知らないのなら、『楽』に徹すればそれはそれでよいのに、欲張って『快』『気持ちいい』という言葉につられているため、言葉だけは「きもちよく」という言葉を使っているのである。
これは操者自身が『楽』と『快』の区別がついていない上、動診(診断)と操法(治療)の区別もついていない。
楽をききわける場合と、快をききわける場合では、動診、操法、たわめの間、脱力のタイミング、回数と、言葉の使い方が違うのだが、それを混同している。
例を挙げると
「どちらがきもちいいですか」
「きもちよさを探して(動いて)」
(最初から)「きもちよく動いて」
という指導をしているケースだ。
★特に「きもちよさを探して」という指導をしている操体指導者は諸悪の根源だ。知っていてわざとやっているのだったら、確信犯だが、知らずにやっているのは患者さんに対して本当に罪作りなことだ。
また『楽な方に、きもちよく動いて』という指導も、楽と快の違いが分かっていない。
違いが分かっていないのなら、『楽』で通せばいいものの、ここ10年の操体界では『快』『きもちよさ』という言葉が流行っているので、皆『楽』という言葉は使いたがらないのである。
なお、「きもちのよさをききわける」という言葉は、橋本敬三先生が言われた言葉だ。橋本先生は勿論「探して」「探って」という言葉を知らなかったわけではない。知っておられて「ききわける」という言葉を使われていたことは忘れてはならない。
これに対して、某健康団体の代表の方は、「きもちよさをききわけるでもさがすでもどっちでもいいじゃないか。そんな細かいことにこだわらないで仲良くやればいいじゃないか」と言った。
これは、ご自身が「楽と快の違い」を知らないこと、動診(診断)と操法(治療)の区別がついていないと明言しているようなものだ。
また。私にとっては、「きもちよさをききわける」と「きもちよさを探す」が一緒でもいいというのは、「快」も「不快」もどっちでもいいじゃないか、あるいは、動診(診断)と操法(治療)の区別なんかつけなくてもいいじゃないか、と言っているの同じに聞こえる。
★ちなみにある集団で、『みんな仲良く』というのはクセモノである。
★『誰かが先進的な意見を言ったら、分からない人を中心に進めて行きたいので、そういう先進的な意見は無視しましょう』『誰かが何か間違ったことを言っても、自分には余り関係ないから、表面はにこにこしてあとはほったらかしておきましょう』ということでもある。