操体法大辞典

操体の専門家による、操体の最新情報など

操体法東京研究会夏季集中講座(視診触診)

伊藤真氏の本にも、中谷彰宏氏の本にも共通して書いてあったこと。

『勉強ではなく、勉強法を教えてもらえ』、あるいは『学び方を学ぶ』。確かにそうだと思う。皆、『それ自体』を学びたがるのだが、本当は『学び方』『勉強の仕方』を習うのが一番早道なのだ。



現在、私は操体法東京研究会の夏季集中講座(午前中編)で講義をしているが、今回の参加者は偶然にも全員が操体法東京研究会の定例講習の参加者だった。定例講習に参加して、集中講座にも出席するとは、本当に勉強熱心だと思うし、教える方もテンションがあがる。前回は第1回目だったが、私が提示したのは、『三浦先生の講義をより効果的に受けるためのヒント』と、『視診触診力をつけるためには』というテーマだった。

つまり、「本講習を受けるための予備講座」みたいなものだ。視診触診については以前からも書いているが、この力が不足しているのが実情である。現実的には、クライアントを診ながら触診力を磨くしかない。



例えば視診。スポーツの中継を観ていて、リングアナや解説者の同時説明を「すごいなぁ」と思ったことはないだろうか。今年のバンクーバー・オリンピックでは、フィギュアスケートが目を楽しませてくれた。私は自分がスケートをやるわけではないので、そのおおまかな流れを観て『キレイだなぁ』とか『ジャンプが決まったぞ』とか思いながら観ているわけだ。一方、解説者は私が見ても3回転だか3回転半だかわからないジャンプを目で捉え、それを解説してくれる。

操体、いや臨床における『視診』とは、フィギュアスケートや体操の選手を見て瞬時に解説ができる能力と同じだと思う。もしかしたら、動体視力も関係あるかもしれないが、それよりも脳というのは質問を与えられると、無意識のうちに答えを探すのだそうで、これも関係あるのかもしれない。



かといって経験から言うと、そこを凝視するだけでは『肝心なものは見えなくなる』のである。







(瞑想の入門書として最適)

瞑想のポイントは、ぼんやりしながらも集中していることらしい。







これは私の「冥想」入門書だった。「瞑想」じゃなくて「冥想」という字にも意味がある。



凝視していることが「見ていること」ではないのだ。逆に凝視すると見えなくなるものもある。からだのサインだ。数年前、師匠から『オレに見えるものが受講生には見えないことがある』と聞いた。もっと具体的に言えば、皮膚の表面に浮かんでくるからだのサインのことだと思う。それは実際に見えるものかもしれないし、見えないものなのかもしれない。今考えるとそれは多分『見えない』ものを観ているのではないかと思う。



ここで『視診触診がたった3日でマスターできるCDつきセミナー教材』でも出せば売れるかもしれないが(笑)いまのところその予定はない(笑)。例えば『特殊な音源で視診触診ができるようになる』とか(笑)。



まあ、最初からそこまでできるわけがないので、最初は普通の『視診』からはじめるわけで、モデルを仰臥位に休ませて視診の練習を行う。爪は短く切り、指の腹ではなく指尖を使うようにする。まずはここからだ。