操体法大辞典

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伊達家の秘話

伊達家の秘話

伊達家の秘話

『何でTEI-ZANなんですか?』と聞かれることが多いが、開業当時は『貞山療術院』だったのだが、「貞山」というのは伊達政宗公の諡号である。仙台発祥の操体と、伊達政宗公から戴いているのである。宮城には「貞山堀」という政宗公が作った堀もある。
(蛇足ながら、「畠山家」というのは『独眼竜政宗』の中では悪役?である。政宗公の父君、輝宗公を拉致して殺害し、その後政宗公に討ち取られる。宮城には「畠山」が多いので、私もどこかで繋がっているのだ)

私はよく仙台を訪れるが、行くたびに必ず瑞鳳殿政宗公の墓所)を訪れ、日々のお礼を述べ、瑞鳳殿で売っているお香を買ってくる。

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瑞鳳殿に彫られた天女


この本仙台伊達家18代当主、伊達泰宗氏と、伊達家重臣白井氏実綱の子孫、白石宗靖氏の共著である。

私も相当マニアであるが、政宗公以降のご当主についてまとめて読んだのははじめてだ。
中に白石氏の高校の同級生、片倉邦雄氏の家に伝わる政宗公の筆による扇が出てきた話をはじめ「秘話」が次々に語られ、一気に読んでしまった。「片倉」と聞いて「あ、片倉ね」とにやりとした人は相当の伊達マニアである。

また、この中には政宗公には成敗した弟、小次郎君の他に秀雄(しゅうゆう)という弟がいたとか、実は小次郎君は死んでおらず、出家したという話も書かれている。秀雄というのは僧侶で、政宗公が後々その寺を訪れているとか、伊達マニアとしては『へ〜え』いう話も満載。

天正12年、政宗公は父輝宗から家督を譲られたが、家臣は公の若年を侮り、やや軍令を軽視する兆しがみえた。それは公の母お東の方が、政宗の弟、小次郎を溺愛していたため、家臣達は政宗公がいずれは廃嫡されると予想していたからである。
この時、重臣であった白石城の主宗実は、これを懸念して当時9歳になる一人娘を男装させ、政宗公の側に仕えさせた。これを見た家臣達は我も我もと先を争うようにそれぞれの子弟を政宗に仕えさせた。あの白石殿が我が子を差し出すのだから、政宗公の時代は続くに相違ないと家臣達は思ったのであろう。

宗靖氏は子供の頃から「伊達家には何百年もご恩を蒙ってきたのであるから、そのご恩を決して忘れてはならない』と聞かされてきたという。

江戸時代から明治、現代に至るまでの、それぞれの当主(意外と皆若くして亡くなっている)が、戦国時代に生まれながら70歳の長寿を全うしたのは、政宗公である。政宗公は朝夕の行水を欠かさず、早起きを励行し、冬でも小袖2つ以内(つまり、薄着)、火燵(こたつ)は向こう側の布団をあけさせ、手のみを暖め、節々裸になっては素肌を鍛えていた。また、年中通しで大茶碗にて水を幾度も飲み、体調を整える水飲み健康法や、医食同源に基づいて料理の献立を指示し、日常は贅沢な食事を避け、菓子などの間食をとらなかった。更には自ら脈をとり、体調を診断し、侍医衆に薬の処方を指示するなど、健康には気をつかっていたそうだ。また、精神を平常に保つため、竹割り(茶筅作り)などの趣味に熱中し(ストレスマネジメント)、鬱気(ストレス)を晴らすこと、美しい自然や景観の場所を訪れては精神を和ませ心を養い、また鷹狩り、乗馬、水泳という運動も怠らなかったそうだ。

こうやって考えると、「息食動想」を実行していたわけだ。