2011年は、暦的、歴史的、占い的にいっても大混乱、変化の年らしい。
私も長年この世界にいるので、何名か破門になった方々を知っているが、共通点があることに気づいた。
それは「破門された」という意味がわかっていないということだ。
もう一つの共通点は、自分より先に破門された人(破門の先輩?)と「だって、友達だから」と、その後も友達付き合いを続けているのである(その後、自分も破門という目にあう)。
そして、もう一つは「破門されても、周囲と今までと同じお付き合いができる」と思っているのである。
破門するほうも、それなりの考えがある。
中には、破門されても家族を患者として元師匠のところに送り込むとか、自分が大病して師匠の患者になるとか、それくらいの根性がある人もいる。臨床家の情けとして「診て下さい」と懇願する患者を見捨てるわけにはいかないことを知っているからだ。
破門されても
「患者として診て貰えますよね」
「今までと同じようにお付き合いしてもいいですか」
と言い
「なぜ、友達なのに破門された○○さんと付き合っちゃいけないんですか」
というのである。
破門されたら、当然「○○先生に師事」とは書けないのだが、何故そうなのか理解できないらしい。
いずれにせよ、「誰に操体を習ったか」とは書けないのである。
書くのだったら、快楽亭ブラック師匠みたいに「立川流を破門となる」と堂々とプロフィールに書いたほうが格好いいのでは
もう一つの共通点がある。
それは、師匠に対して少なからず金銭的にお世話になっているということだ。これは、勉強のために講習に聴講生として参加させていただいたり、金銭的に困っていることが分かっているので、その点でお世話になっていたのである。
それなのに破門されちゃうようなことをするのである。まるで、シナリオができあがっているように事が進んでいく。
しかし、後で考えてみると、それはその人が選んだ「生き方」なのだということがわかる。
生き方は自分でしか選べないのだ