2011年7月22日11時半。「はやて」で盛岡に着いて早速集合場所に向かった。
あるご縁で、岩手県庁の方と一緒にバスにのって、岩手県北部、比較的被害が大きくなかった沿岸部へ向かった。
私の両親の出身地は宮城の気仙沼である(よく皆私も気仙沼生まれだと思うらしいが、私が生まれたのは品川区戸越)。宮城の太平洋沿岸北東の端。隣は気仙沼同様被害が大きかった陸前高田市でもある。
宮城の小学生は「気仙沼?もしかして岩手?」とか言うらしいが(宮城出身のT大のA先生に聞いた話)私の母の実家などは、山2つ越えると陸前高田市である。
まあそれはいいとして、岩手県庁の方に聞いたら、今回の地震で出た瓦礫は岩手で一年間に出る瓦礫の七年分の量らしい。それを三年で処理する計画なのだそうだ。
盛岡から沿岸までバスで一時間半、最初に着いたのは久慈市。こちらはそんなに被害は大きくはないというものの、波が相当高かったことがわかる。
その次に訪れたのは、野田村。こちらは被害が大きく、町の中心部が根こそぎ流されてしまっていた。
瓦礫の山というものを間近に見た。
瓦礫の山。私が立っているところは、もとレストランがあったところらしい。
右手はすぐ海岸。右側に残っているのは防波林の名残。木の高さと比べて、瓦礫の山の
高さがわかる。
「この瓦礫を埋め立てに使う?」とか「コンクリート系の瓦礫は何かに使える?」とか色々考えた。
瓦礫の中から使える木くずを拾ってきて、とかそんな問題ではないかもしれない。