いつも「楽」と「快」はちがうんだよ、という話をしている。
それから「快楽」という言葉、本来は「けらく」と読み、仏教用語。「煩悩から解放されて得られる安楽。また、浄土の安楽」を指す。
「カイラク」は「心地よく楽しいこと。官能的な欲望の満足によって生じる、快い感情。けらく。「―をむさぼる」という意味で、「けらく」とはちょっと違ってくる。
「カイラク」は感覚ではなく「感情」なのだ。
「楽と快」の違い、というのを文章でたらたら書いてもなかなかわかりにくい。それは「快」が「体験」だからである。
一度第2分析、第3分析の「快」を味わったら、
ねじれてきもちいいとか、伸びてきもちいいとか、ひっぱってきもちいいとか、ストレッチ的にきもちいいというのを越えた「きもちよさ」を体験してしまうと、
その違いは明確にわかる。
何故かと言うと「からだが要求してくるきもちよさ」というのを体験するからだ。
ちなみに、「楽」がダメなんじゃないのだ。
「どちらが楽ですか、辛いですか?こちらが楽なんですね。じゃあそちらに動かします。動きをたわめて、抜きたくなったら抜いて下さい」
でもいい時がある。
「楽」と「快」は根本的にちがう(その違いを勉強するのが、操体の勉強なのです)。それを一緒に混同しちゃ、「楽」に対しても「快」に対しても、からだに対しても申し訳ない、ってことなのだ。
ところで、「楽」と「楽しい」はちがう。