操体法大辞典

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なぜ性の真実『セクシャルパワー」は封印されつづけるのか(1)

タオの暗号 原版老子書「秘儀」活用法(超☆きらきら) (超☆きらきら 5)

タオの暗号 原版老子書「秘儀」活用法(超☆きらきら) (超☆きらきら 5)


『タオの暗号』これは、老子書に隠された暗号について書かれている。また別の機会に書こうとおもうが「道徳」の「道」は男性生殖器を指し「徳」は女性生殖器を指しており、実は性の奥義について書かれた裏の意味がある、という本である。老子の研究家はたまげるかもしれないが。いずれにせよ、偉人達は時の権力者に従うフリをしながら、暗号として後世に智慧を残したというのは納得できる(フィクションかノンフィクションかは読者が決めればいい)。


この本の姉妹書(兄弟書?)である「タオの暗号」と、同じ出版社から出ている。スピリチュアル系と言えばスピリチュアル系である。単なる「エロスピ系」と片付けるのは少々勿体ない。著者は女性で「ダイエットやめたらやせちゃった」とか、アンチダイエット派の本を書いている。

この本は女性の語り口で書かれているが、ここまでよく書いてくださった!という感じである。
橋本敬三先生は「セックスを生涯テーマにしよう」と言われ、実践されていた。
橋本先生の著書を読むと、若い頃の「性に対する興味」と、それに対する「罪悪感」、キリスト教の「霊」と「肉」の板挟みになっていた時の事が書かれている。結局橋本先生は長年聖書を読まれたり(三浦先生にも、生涯に一度は読めと勧められている)していたが、結局入信はしておられない。明治以前、日本人は性に対して大らかだった。それが黒船来航以来なんだかヘンなことになった。

何故、封印され続けるのか?封印したほうが、人々をコントロールしやすいからだ。

第1幕 性が聖なるものだった頃
第2幕 性を「恥ずかしいもの」に変えた宗教の悪知恵
第3幕 性を「軽いもの」に変えたマスメディアの戦略
第4幕 エネルギーからみた新・性の心得
第5幕 寂しがる心に必要な手当
第6幕 あなたの中のセクシャルな女神と男神

丁度この本を読んでいる最中、普段は余り見ない夕方のテレビの特集で、若者の「インスタント・セックス」についてやっていた。この本にも書かれていたが、10代の中絶と性感染症罹患がもの凄い勢いで増えているのだ。先進国でHIV感染者が増加しているのは日本だけだという。

10代だけではなく、最近は「出会い系」サイトなどで大人でも一時の関係を得ることができるし、一方夫婦間ではマンネリ化した「お義理」の関係だったりする。

なぜそうなったのか、それが順を追って書かれているのだ。第1幕で紹介されるのは「聖娼」と呼ばれる神殿の巫女達の存在である。彼女達はある種の薬物などによって、トランス状態に入り、神と合一する。その功徳を神殿を訪れる男性達に分け与えていたのだ。この時代は「性」は「聖」だったのである。
第2幕では「宗教の悪知恵」が書かれている。

「セックスもマスターベーションも射精のためにある」という刷り込みは、お上に逆らえない人間づくりのために、ひそかに人々の常識に滑り込まされた、マインド・コントロールの仕掛けだったのだ。
こうした男性の性欲迷信からうまれた俗言で、「女は愛がなければ気持ちよくないが、男は射精できるから、愛がなくても気持ちいい」というものがある。本当はそんなことはない。
中略
「据え膳食わぬは男の恥」という言葉があるが、このように男だけは愛情の有無を問わず性欲本位で動ける者こそが「強い者」として推奨されるのも、刷り込みの一種というわけだ。
この仕掛けの効果は、もう一つある。射精だけを目的に据えられたセックスはは、人間が生まれ持った全身の感受性の満足には至らない、短く味気ないものとなってしまう、ということだ。夫婦のセックスは子作りのためにこそある、と刷り込まれた結果、どうしても射精本位に行為をそそくさと済ます結果となり、満たされきらずに余った性感を、外で発散せねばいられなくなる、という癖がつけられるわけだ。これぞお上の思うツボである。

では次に、精神面の仕掛けとは何かといえばセックスの快感を神霊的な次元に通じさせずにおくために不可欠な、「罪悪感の埋め込み」である。これが最も顕著であったキリスト教では、セックスを子作りのために必要なものとしてではなく、快楽として味わうと堕落したとみなされ、神父の許で告白と改俊をさせられた。
そしてこの罪悪視を達成するために欠かせなかったのが、豊かなセックスを実現する原動力となる女性の体を、尊重する代わりに侮辱することで、その力が発揮されないように翼をもいでしまうことだった。それで、こんな言いがかりがつけられた。女の体は、男に理性を失わせて動物的な欲望へと引きずり下ろす、「いやらしい・淫らなもの」

どこかで聞いた話ではないかっそう、イヴがアダムをそそのかして肉欲の道へ引きずり込んだから、人類はエデンの園から追放された、だから君たち人類は生まれながらに「原罪」をしよってるんだよと説き聞かせる、旧約聖書の「創世記」の話がまさしくこれだ。

するとおそらく「失楽園」も、一般庶民をセックスで得られるエネルギーから遠ざけて繰りやすくするために、宗教を利用しての支配をたくらむ古代の権力者がコピーライトという可能性が高くなってくる。なぜなら、人類にとっての本来の真実は、これとは逆だったはずだから。男女のエネルギーの調和の取れた「結び」を通して、人は新しい生命を創造するほどの「神の領域」に至ることができる。ところが"聖書"では、その「神に近づく・エデンの国へ至る行為」を、「神から離れる・エデンの図から堕落する行為」だと、まったく逆方向の意味にすり替えて教えた。
これを頭っから信じ込まされて育った人々は、自分は両親の「恥ずかしい行為」から生まれた、どうせ生まれつき罪深い存在なんだ、という何とも事実と食い違った自虐的な思考に引き裂かれて生きることになるわけで、幾億万のキリスト教徒の悲哀がしのばれる。いや、同じ書物を聖典としているユダヤ教徒も含めていいのかもしれない
とはいえ、個人として見た時のクリスチャンは、正義感が強くて社会奉仕の精神に溢れ、他者に対して献身的に動く、ありがたい人たちが多い。それを思えば、イエス・キリストが説いた隣人愛の精神が、今も脈々と受け継がれている事実に敬意を表するほかない。

なお、イエスの相思相愛のパートナーだったと言われるマグダラのマリアは、セックスを聖なるものと切り離すために「元娼婦」で、信仰によって救われた弟子として偽って伝えられている。こりゃ結構ひどい話だ。
聖母マリア処女懐胎も普通に考えたら「?」なのだが、これも「切り離し」なのだろう。まあ「ムー」とかだったら「イエスは試験管ベイビーだった」とか「人口受精児だった」と書くかもしれない。

昨年今年と、スペインに行ったが、教会や絵画に見られる重圧感は「性の抑圧」にも関係していることはあきらかである。なお、宗教画がすこしばかりおどろおどろしいのは、画家達の教会批判でもあるといわれている。

第3幕 性を「軽いもの」に変えたマスメディアの戦略
これは読み終えてすこし背筋が寒くなった。メディアの洗脳がどうやって進められているのかということだ。性を「軽いもの」にすると「消費」が増えるという簡単なしくみである。また、筆者が書いているとおり、女性が1人でスイーツを食べてうっとりしているとか、シャンプーしているというCMは確かに、ソフトにしてオブラートをかけたずばり「本番」でもある。このように隠されたメッセージで我々は日々洗脳されているのだ。

なお、ある殿方に「オンナには性欲はないんだよね」「オンナは母性本能しかないんだよね」と、聞かれたことがある。それは明治の軍人の妻かよ!という感じである。
女である母親は崇高な存在で、その女には性欲は存在しない、でも自分はオトコだから、せーよくがあるから自分はヤラせてもらってもいいよね、という何だか自分勝手な解釈ではないか。
そのかわり「自分は初体験は高校一年で、同級生には『セックスアニマル』と呼ばれていた」というのが自慢であった。この人も考えてみれば「刷り込み」されていたのだと思う。高校生の頃に生涯の性エネルギーを使い果たしてしまったらしいけど。