私はDoCoMoの携帯とiPhoneを使っている。iPhoneはもっぱらデータ閲覧や、電子書籍を読んだり、交通手段をチェックしたりするくらいで、ほとんど電話として使っていない。改めて凄いと思うのはiPodにはじまり、iPadもiPhoneも分厚いマニュアルがないことだ。昨年末携帯が壊れたので買い換えたが、多分殆ど読むことはないであろう分厚いマニュアルがついていた。
iPhoneやiPadは、マニュアルがなくても直感的に使える。
その昔「マニュアル君」という言葉が流行った。
マニュアルといっても機械系のマニュアルではなく、ナンパの仕方からデートの仕方、はたまたベッドイン後まで、何でもマニュアル通りにやる男性を揶揄したものだ。
多分「想像力に欠ける」というイメージがあったからだろう。
もしくは失敗しても「マニュアルが悪い」と、マニュアルのせいにできるからかもしれない。
「型」というものがある。
操体なら『般若身経』(身体運動の法則)、意拳の鍛錬、立禅などもそうだし、空手にも型がある。大抵「型」というのは面白くなく見える。操体だったら、地味な前屈後屈、左右捻転、左右側屈を練習するのだったら、もっと派手な(?)介助法や操法をやりたいと思うだろう。空手などでも型はあまりやりたくないので、いきなり自由組手をやりたい、ということもあるようだ。
本当は「般若身経」と「膝窩の触診」でその人の操体のレベルは分かってしまう。立禅も空手の型もそうだ。
「型」は師(せんせい)の真似をすることからはじまる。できないから先生が悪い、というのは少し考えもので、実際は自分のからだのヘンなクセだったり、自己流で身に付いたヘンなクセだったりする。ヘンなクセがついていると、真似ができないからだ。
「型」には自己責任が伴うのだ。
言葉の誘導などで「自分がいいやすいように変えていいですか」という場合がある。私は「先生の完全コピーができるようになってから(守、の時代を経てから)にしなさい」と指導してきた。経験から言って、やはり「完コピ」が大切だから。
小説や俳句でも、好きな作家や名作を写しなさいと言われる。これに対して、素人ほど「写したりすると、自分らしさがなくなるんじゃないですか」と言うらしい。ところがどっこい、そうやって先人達の作品を写し取ることによって、基礎が育ち(「守」の熟成)、「破」(基礎ができ、自分の個性が生まれる時期)をスムースに迎えることができるのだそうだ。
ところが、指導中ちゃんと先生の言う通りにできるのだが、何か違和感を感じることがある。
そしてある日「そうなのか」と気がついた。マニュアル君なのだ。先生の言うことをマニュアル通りにこなすことはできるのだが「型」が身に付いているわけではないのだ。私の感じていた違和感はこれだったのだ。
「守」の時期は終わっているのに「破」(基礎を終えて、自分のテイストが生まれてくる時期)に行けずにいる状態なのだろう。完コピと言えば、エドワード・ヴァン・ヘイレンとか、スティーヴ・ヴァイの完コピをする人がいる。完コピなんだけど何だかつまらないことがある。
コロッケの物真似が面白いのは、真似している本人(ちあきなおみとか、五木ひろしとか)以上に本人「らしさ」があるからだ、と松岡正剛さんの本にあったが、なるほど、と思う。コロッケは「守」を通り越し「破」を確立し、自分のスタイルを確立した。単に完全な物真似だけでは一流とは言えないのだ。
やはり「守」「破」「離」というのは学びにかなったシステムなんだなあ。