7月16日海の日。七時半に三茶に集合した私と福田画伯は三浦先生のBMに荷物を積んだ。そこから千駄ヶ谷の津田ホールに向かう。渋谷から表参道を抜け、ベルコモンズの前を左折し、ワタリウムやホープ軒(朝8時だが、ラーメンを食べているらしき人を見た)を通り過ぎ、津田ホールに到着。車を止める件は伝えてあるので、駐車場はすぐ開けてもらえた。その後会場が開くまで津田ホール正面の「カフェ・エクセシオール」で一息。
今回はフォーラムとは違って師匠のワンマン操体ライブなので気が楽と言えば楽だ。というか一体何をやるのか私も知らない(笑)。一体なにをやるんだろう。
操体には「学びの快感」が存在する。それを知らずに、単にテクニックや技術だけ欲しいというのは勿体ない。
操体はある意味で「非常識」である。患者自身が医療者の立場をとり「○○にはこの操法」というように、症状疾患別という概念がなく、「病気はからだからのありがたいサインだ」と創始者は言い、病気になる過程の定義は西洋医学とは真逆のプロセスを経る。
おまけに日本人が大好きな傾向がある「頑張る」という言葉に対して「頑張るな」と言う。
先程余り見ないテレビをお付き合いで見ていたら、○だまさ○氏が、東北の被災地の小学生などにむかって「頑張ろう」という歌を熱唱していた。
被爆地である長崎に縁がある彼が、果たして、白血病で死に行く人に、明るく「頑張ろう」といえるのだろうか。
私は子供の頃から「根性」とか「頑張る」という言葉が嫌いだった。それは、本人がベストを尽くすのならいいのだが、他人が無責任に「頑張れ」という身勝手さへの嫌悪だったのかもしれない。
頑張る、っていうのは「我をはる」とか「眼をはる(ガンつけ)」なのだ。
ここ数年、うつの患者さんに対して「頑張る」というのは辛すぎる、というのは頑張れないから辛いのだから、という意見が流れたが、震災以降また、無責任な、口先だけの「頑張ろう」が増えているような気がする。
「頑張れないから」死を選ぶこともある。
オリンピックにでるようなアスリートには「頑張れ」と言ってもいいかもしれないが、個人的には努力を積んでいるのだから、スポーツの分野のトップクラスの方に「がんばれ」というのは、余りにもアホな言い方ではないか。
操体の創始者、橋本敬三医師は辛く重い18歳から23歳までの青年期の終わりに、ある無名の牧師の話から「がんばらなくてもいいんだ」「はじめから救われている」ということを知る。それは、ぐうたらしてもいいとかという意味ではなく、魂は最初から救われている「救い」(絶対的真理)、ということと、娑婆で行ったことが、因果応報として良いも悪いもそれが返ってくるというのが「報い」であるということに気がついた。
この辺りは「生体の歪みを正す」を読んで頂くとしよう。

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以上は私の私見が入っているとしてご容赦。
話を「マンダラ」に戻すが、まるで歴史の細部を細かくあるいは大写しにして縦横無尽に「橋本敬三に遊ぶ」という1日だった。
鵜吞みにせず、自分で考え、自分で選ぶ。
本来はそういうハズなんだけど。