- 作者: 有田和正
- 出版社/メーカー: サンマーク出版
- 発売日: 2009/12/16
- メディア: 単行本
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中学高校と、自分に一番向いていないのは「ヒトに物事を教える」ということだと思っていた。また「体育」の授業は大嫌いだったので、いわゆる「体育会系」というのは一番苦手な人種だと思っていた。
ところがフタをあけてみると、いつの間にか人様に「操体」を指導する立場になっていて、一番嫌いなハズの体育の指導者の資格を持っているではないか。これで役に立っているのは「運動が嫌いな人の気持ちがわかる」ことだと思う。
よく私の師匠が言うのが「臨床家が五体満足というのはある意味で不利だ」ということ。実際「私は元気で健康で今まで病気一つしたことがありません」という元気な人は、調子が悪い人の心もちを理解できるのかという疑問にも繋がる。
「教える」というのはコツがいる。指導者なら誰でも教える相手にしっかり飲み込んでほしいと思っている。
この「教え上手」は、ある意味で非常識な教え方が書いてある。大切なのは「何を教えないか」ということらしい。確かに指導する場合、あれもこれもと教えたくなるが、それに敢えて「教えない」というルールを設けるのである。
高校までは「先生が一方的に発信する勉強」「答えが合っているということが目的」だった。大学もそうかもしれないが、大人の勉強は「自分で考える」ということだ。
「何で、きもちよさを探す、じゃなくて「きもちのよさをききわける」なの?と聞かれることがある。きもちのよさを探す、というのは主語が「私」である。「きもちのよさをききわける」の主語を「からだ」に変えるとどうだろう。また、「きもちのよさを探す」というのは、色々動いてみて探している様子である。実際は動いてみて、辛くない、あるいは痛くないところを探しているのだ。
操体は第二分析から、感覚分析にシフトした。運動分析ならば、動いて探してもいいだろうが、第二分析は感覚分析である。なので「からだにききわけて」という問いを立てる。
「ききわける」というフレーズは、橋本敬三先生も使われていたという。
「感覚は、ききわけるもの、感じるもの」
本書の著者は長年教師を務めている。「いかにして教えないか」という一瞬普通とは逆の事を述べているが、読み進めるうちに「なるほどねぇ」、と腑に落ちてくる。
小学生も「自分で考える」ことは大事だが、大人はもっと大事だ。自分で考えて間違っていたことはあとで忘れない。