操体は、楽な方にきもちよく動くのではない。
楽と快の区別を明確にしているのが操体である。
楽な方が本当にきもちいいのだろうか?それは単に「楽でスムースでなんともない」のではないだろうか?
「きもちよく動く」のが操体ではない。
その前に「その動きが快か不快か」という、診断分析(動診、動かして診る)という過程が必要だ。
動かしてみないと(確認してみないと)それが快か不快か分からないではないか。
勿論世の中には「きもちよく動けちゃう」人もいるが、これはホントの話、動きながら確認できちゃう、器用な人達なのであり、私のような凡人は、動かしてみないと、それが快だか不快だかわからない。
操体をやっている人の中には、それを勘違いして「自分がこうやってきもちよく動けるんだから、他人もできるだろう」と、安易に
きもちよく動いて」という方もいる。それは指導者の「おごり」というものだ。
また、講習で練習している場合、相手はある程度知っているので動いてくれる。これが本当の臨床だとこうはいかない。
言葉の誘導が適当でも同じ受講生なら動いてくれるが、お金を払ってくる患者様、クライアントの方々はそうはいかない。
「普通は動けない」というのをアタマに入れておこう。
そして、もう一つ考えていただきたいのは「楽なほう」≠「きもちよさ」ではないということだ。
これは「楽(な動き)」は運動を分析しているのであり、「快(適感覚)」は、文字通り感覚を分析しているのである。
楽、というのは「動かしてなんともない」「スムースで引っかかりがない」「違和感がない」ということだ。
つまりバランスがとれていて、ニュートラルな状態なのである。ある先生はこれを「無」といっておられるが、動かしてみた感覚には「楽」(スムースでなんともない、つまり無と言ってもよい)、不快(痛い、辛い、いやな感じ)、そして「ああ、きもちいい」という快があると思っていただこう。
つまり、楽と快は違うのだ、と認識していただきたいのだ。
この話しをすると笑う人もいるのだが、楽と快を混同するということは、例えばセックスの最中(笑)に、お相手が「ああ、楽だわ」「ああ、楽だよ」と言ったらどうだろう?
なんかヘンじゃないだろうか(笑)。
これくらいヘンなのだ。
また、もっと直喩的に言えば「愛の営みは楽できもちいい」というのはヘンではないか?
これは、愛の営みというのは「楽ではない」という認識が私達にあるからなのだ。
「楽なほうにきもちよく」という言葉は、言葉上は難なくアタマに入ってくるが、操体的に考えると、ヘンな言葉なのである。
楽なほうはスムースで何ともない場合のほうが多いからだ。
逆に、可動域が少なくても、気持ちいい場合もある。
ここで「快(きもちよさ)についてもう一つ。
確かに、ボディに歪みがない健康体で、生きているだけで気持ちいい、ということもありうる。
しかし、そういう状態というのはあまりないのが事実である。
そして、ボディに歪みがなくて、バランスがとれていて、動かしても楽でなんともないという、ニュートラルな状態がある。
これが「無」と言ってもいいだろう。
そして、快というのは「歪みがなくて、健康だから」と思っている方もいるかもしれないが、実は「快」とボディの歪みは密接に繋がっている。歪みがある場合、動かしてみると(動診)、快か不快か分かるのである。
これを「快不快の法則」という。
なのでどこかトラブルがある、バランスが崩れている場合のほうが強烈な快あるいは不快を感じることが多いのだ。
勿論人間の感覚というのは非常に微妙なものなので、痛いけど気持ちいいということもある。そういう場合はどうするか?
操体の場合「からだにききわけて」(アタマで考えない)やるかやらないかを決定する。
痛キモチいい。これは痛いけれど、味わってみたいというからだの要求があるのか?ないのか?
痛み、ちょっとした痛みだけれど、からだには何故か一度は味わってみたいという要求がある。
こういう場合、一度味わってみると、二度目はいらない、ということが多い。
楽な動きを問いかける動診操法を第一分析という。
対になった二つの動きを比較対照して、楽なほうに動かして、数秒動きをたわめ、瞬間急速脱力する。
これが従来の操体だ。
私達がやっているのは、橋本敬三先生が「きもちのよさでよくなる」「楽ときもちよさは違う」と言われたことから、三浦寛師匠が体系づけた「一つ一つの動きに、快適感覚の有無を問いかける」というものだ。これを第二分析という。
「楽(な動き)」をききわける動診操法と、「快(きもちのよさ)をききわける」動診操法は、そもそも違うのである。
そこが操体を理解する、一番のポイントなのである。