私のところには、
「操体を受けたんですが、きもちよさっていうのがわかりません」
という方がよくいらっしゃる。
二人に一人くらいはそういう方だ。
昨年、大阪で師匠(三浦寛先生)が「般若身経」の講習をやった際、
関西のマダム達に
「きもちよさってわかる人」と聞いてみたところ、手を挙げたのは
僅か数人だった。
次に「楽か辛いかはわかる人は?」と聞いたところ、
多くの人が手を挙げた。
これは、どういうことかというと
操体の指導者が、
・きもちよく動いて、という指導をしている
・「どちらがきもちいいですか」という問いかけをしている
・きもちよさを探して(色々動いてみなさい)という指導をしている
可能性が高い。
なぜ、きもちよさがわからないかというと、
それが「きもちいい動きではないから」か、
「バランスがとれていて快でも不快でもない」ということを指す。
また、これはやってみるとわかるが
自分で動いてみる「きもちよさ」は、探してもあまり見つからない。
自分で動いてみて見つかるのは「あ、ここは痛くない」とか
「ここは楽だ」ということのほうが多い。
★きもちよさが見つかるのはずばり、「性的な接触」などの時である。
★例えば、性感の開発等で自分のからだに触れてみるとか
パートナーに触れてもらって、未開の性感帯を発掘するとか
★操体の「快」は性的な快とは異なるのである。
言葉では「きもちよく動いて」というのは簡単だ。
また、これはフィットネスクラブなどでもよく聞く言葉だ。
ストレッチも「きもちいいように」という指導も最近多い。
よく考えてほしい。
きもちよく動く前に、
その動きが「きもちいいかどうか」動いてみないとわからないではないか??
なので、本来は「ある動きを試してみて、それが快か不快か」という
「ききわけ」が必要なのである。
それでは、なぜ「きもちよく動いてぇ」というのが
成り立ってしまうのか(本当は成り立たないし、指導されたほうが
本当にきもちいいかは限りなく不透明)。
それは、健康体操や養生法の場合だと、
ある程度動ける人、運動が可能な人、公民館とか体操教室とかに
行ける人が対象だからなのである。
なので「きもちよく動いて」と言っても
通じてしまうことが多いのだ。
健康体操ならば「きもちよく動いて」でも通じる。
(でも、どちらがきもちいいですか、は通じないことが多い)
臨床であれば「ある動きを試して(動診・診断)、
その動きに快適感覚があれば、それを味わう(これが治療・操法)
となる。
私達は、どちらかと言えば
ぎっくり腰で動けないとか、寝違いで首が動かないとか
すごく具合が悪いとか、そういう人に操体を行うことが多い。
ぎっくり腰で動けない人に
「きもちよく動いてぇ」とか言ったら、
「何言ってんの??」と怒られるであろう。
痛くて動けないから来ているのに
「きもちよく動け」と言われたら、当然である。
さて、
十五年位前だろうか。
在る男性がぎっくり腰でやってきた。
何度か来ていたのだが、当時一緒にやっていた方がメインで診ていた。
その方は(今でもそうみたいだが)、
「きもちよさを探して(動いて)」という指導をしていたようであった。
というのは、その男性は、腰が痛くてからだを海老ののように丸めているのだが、
色々もぞもぞ、痛いのを我慢してからだを動かしているのである。
「どうしたんですか?」
「いや、きもちよさを探してるんです」
「・・・・(どういう指導してたんだろ?)」
私はその時気がついた。
ぎっくり腰とかこういう急を要する場合、
「きもちよさを探して」というよりも
「痛くない、辛くないポジションを探すほうが、からだとしては妥当である」と。
その方は「きもちよさを探して」と言っていたのだが、
実は「痛くない、楽なポジション」を探していたのである。
私はこれで
「きもちよさは、探しても見つからない」
「きもちよさは、ある動きを試してみて、あるかないかをききわけるほうが
確実である」ということがよく分かった。
私が、三浦寛先生の「楽と快は違う」という意見に賛同し、
先生に弟子入りするのはそのすぐ後である。
★関西は、健康体操、養生法として、
「操体道普及友の会」(故中川重雄氏主宰)の支部のようなものと
「○○操体の会」などの活動が盛んである。
★関東では、医師が臨床で用いていたものとして、
操体法東京研究会はじめとし、治療家、臨床家の実践が多い。
再販されました。「快からのメッセージ」
「楽と快の違い」がわかります。
体験すればなお分かります。
2015年春季東京操体フォーラム開催
4月29日