操体法大辞典

操体の専門家による、操体の最新情報など

縁は苦となる 苦は縁となる

私は操体を学ぶ者として、橋本敬三先生の著書はしっかり読み込み、反芻しているつもりであるが、いくつか疑問に思っていることがある。

それは、橋本敬三先生が書かれたことではなく、その受け取り方だ。

 

例えば「自分は組織の長にはならないよ」という言葉が、「組織を作ってはいけない」というように書き換えられているように思える。
組織の長にならないということは、組織を作ってはいかんということにはならないと思うのだが。

私自身は「自分は組織の長にはならないけど、作る作らないは君達の勝手(自由、自己責任)だよ」と、受けとっている。

組織を作らないことによって、操体は細分化し(小さな組織がたくさんできた)、勝手化し「いろんなやり方があっていいんじゃない」というようになった。それが、スキルの陳腐化などに繋がっている。


★私はそうは思わないので、操体実践者の地位向上とスキルの保持のために、一般社団法人日本操体指導者協会を作った。ちゃんと勉強している人には報いたいのである。

 

もう一つは「ほめて育てなさい」ということ。

 

ほめるのが悪いとは思わないが、橋本敬三先生の「ほめて育てなさい」という言葉をマトモに受けすぎて、子どもを過度にほめて育てた結果「条件つきのホメ」に毒されたという例をみているからだ。

 

条件つきのホメというのは、ほめられたり、賞賛の言葉を受けとらないと、自分を見失ってしまう怖れがあるので、常にほめられるとか、注目を浴びるようなことをしつづける、ということだ。

 

★なお、オットがツマをほめるとか、ツマがオットをほめるのは当然であり、ほめるというのは人間関係の潤滑油になる。「このご飯は美味しいな~」ということは、橋本敬三先生も書いていらっしゃる。

★申し訳ないが、猫は「猫可愛がり」である。何故なら猫はカワイイのが仕事だから。

 

★後述するが、師弟関係(寺でも操体でも、伝統芸能でも)師匠は弟子をほめては育てない。


橋本敬三先生も、弟子はさほどほめないが、ファンとか患者さん(女性は特に)ほめたという話は知っているが、弟子はほめられないのが普通であり、注意されるとか叱られるのが当然なのである。また、弟子ではなく「受講生」「生徒」「お客さん」ならば、ほめてやる気を出させるということはあるだろう。

 

以前、Facebookである人物の投稿に「いいね」を押したことがあった。その直後、個人的なメッセージで「いいねを押してくれたなら、何かコメントを書いてください」と、「ほめ」をリクエストされたことがある。
「ほめ」をリクエストされたのは、私自身生まれて初めてで、違和感というか、やらせくささを感じたことがある。
「いいね」を押してくれない「友達」を非難するようなこともあったようだ。

 

 

この「褒めて育てる」という私の疑問に答えてくれたのが、塩沼亮潤大阿闍梨の近著である。

 

 

縁は苦となる苦は縁となる

縁は苦となる苦は縁となる

 

「ほめる」の前にひとつ。

「世のため」ではなく、まず自分を磨く 

という章がある。
実を言うと、私は「世のため、人様の役に立ちたい」という話を聞くと、少なからず「その前に、自分は?」と思うことがあった。

人のために時間やエネルギーを使い果たして、ぼろぼろになっている人をみることがあるからだ。

 

塩沼大阿闍梨

世のため、人のため、そう口で言う前にまず、自分のために自分を磨いてください。誰かのためになどと思いすぎず、淡々と自己を見つめる。その結果が誰かのためになっていれば、それでいいのです。

 

 と、おっしゃっている。

 

そして「一つ褒めて、一つ助言をする」という章。

 

叱るという言葉の反対語に「褒める」があります。

よく、人は褒めて伸ばそう、褒めて育てよう、などと言いますが、私はずっとその言葉に違和感がありました。

 

 

★私も違和感を持っていた一人である。これも再掲になるが、50代後半の受講生(男性。基礎が全くできていなかったので、それなりに指導)に「橋本先生は、子どもは褒めて育てろと書いていましたよ!」と訴えられ、「あなた子どもじゃないだろ」という返事をしたことがある。

★「操体は褒めて教えろ」という勘違いをされても困るのである(笑)。そういう勘違いをしている人もいそうな気がする(笑)

 

大阿闍梨が本山で修業中、師匠を囲んで先輩僧侶二人が、「育て方」という討論をしたそうだ。一人は「厳しくしないと育たない」もう一人は「褒めないと育たない」。

お師匠様は「叱るべき時は叱る、修行僧のご機嫌をとるようでは人は育たん」とおっしゃったそうだ。

これは、操体でも伝統芸能でも同じで「弟子のご機嫌をとるようでは人は育たん」のだ。

 

確かに褒めて育てると「使う側としては都合がよい」のだが、指示待ち傾向が強く、応用力がない、厳しい言葉やプレッシャーに弱いという共通点がある。
しかし、厳しすぎると萎縮してしまい、相手の顔色ばかりうかがうようになる。

 

塩沼大阿闍梨はこの問題について、長いことご自身の結論を出せなかったそうだが、東日本大震災後、NHKに出演した際の番組を見たお弟子さんから「被災者の立場に立ったご発言に感動しました」と、言われた瞬間、腑に落ちたのだそうだ。

そのお弟子さんは、とても純粋な気持ちで大阿闍梨を褒めたのだ。そして、その言葉を大阿闍梨ご自身もその言葉を「素直に受け止めることができました」とある。

 

「そうか、褒めて育てるという言葉にずっと違和感があったのは、そこに作為的なものを感じたからだ」
本当に褒めるべきことをしたのなら、褒めるべきですが、「褒めれば育つから褒めよう」というのは本末転倒です。

自分が一生懸命努力したときに、誰かから「がんばったなあ、よくやった」と褒められると、もっとがんばろうという気持ちになります。それが褒めるべきタイミングです。

逆に努力していようがいまいが、そんなことに関係なく、いつでも褒められると、本当に自分のことを見て評価してくれているのか、疑いたくもなります。また、褒め言葉に慣れてしまうと、次第にそれがあたりまえとなり、自分の力を過信してしまうという危険性が出てきます。褒められないとがんばれなくなってしまうこともあるでしょう。
叱ってばかりでも人は成長しませんが、努力をして結果が出たときには大いに褒め、成功体験というものは素晴らしいものだという喜びも実感させるべきです。

そしてそのタイミングで次なるステップのアドバイスをする。一つ褒めると同時に一つ助言する、これも重要です。

 

 なお、この話以外にも「燃え尽きて灰になる線香ではなく、長く香る香木になる」
「練習すればするほど、修正点が見えてくる」など、心に響く言葉がたくさん詰まっている。