先のフォーラムで、半蔵賢人が「操体概論」で「いいとこ取り」という話を出した。
★半蔵氏のは「橋本敬三先生の、自然法則のいいとこ取り」のことだ。
また、先日ある人が「操体はいろんな治療法のいいとこ取り」と言っていたことを思い出した。
ちなみに「当事者」つまり、操体実践者が「操体って、自然法則のいいとこ取りなんですよ」という場合と、
「操体をちょっと知ってるような人」が「操体って、いろんな治療法のいいとこ取りですよね」という場合、
★当事者(操体の専門家)に向かっては、いささか失礼ではないかと思う。
これは師匠も「全くだ」と言っていたが、操体のことをよく解っていないし、例えば「整体と操体のちがい」なども知らないのだろうと思う。
いいとこ取り、ということを考えると、
例えば「歯の数と食べ物の種類」というのも、橋本敬三オリジナルではない。また、80歳を過ぎるまで、橋本敬三先生は色々なことを試されていたのも事実であるが、
- 「からだの動きは8つしかない」
- 「ボディの歪みを正すことによって症状疾患を二次的に改善する」
- 「きもちのよさで良くなる」
- 「動かして感覚を確認する」
というのは、操体独自のものである。
また、80歳を越えてからは「やはり自分のやっていたことは間違っていなかった」と、「操体臨床オンリー」になるのである。
★三浦先生が若い頃など、橋本敬三先生は、例えば子どものおねしょなどには、骨盤の矯正(すごい音がしたらしい)もしていたそうだが、臨床家が、経験や時を経るに従って、やることが洗練されてくるのは当然のことだ。
「いいとこ取り」というのは、「自然法則のいいとこ取り」なのである。
「いろんな治療法のいいとこ取り」というのとは、違う。
例えば、我々は「操体は、操体」として接しており、「○○操体」という言い方はしていない。それは「様々な分析法はあるが、操体は操体である」という認識だから。
さて「○○操体」というのは何故生まれるのか?
それは「操体だけ(主に第一分析)では効果が出ない」場合、あるいは「○○操体」という名称でオリジナリティをうたっているのだろう。
私の知っている人でも「野口整体と操体をミックス」という人がいるが、そもそも野口整体と操体は、セオリーが違う。ミックスすると齟齬が発生する。
ここでは何故「ミックスすると齟齬」が生じるのかは書かないが、知りたい人は私のベーシック講習にでも来て下されば、お伝えする。
私は野口晴哉師を尊敬しているので、敢えて野口整体には首を突っ込まないのである。昭和時代は、整体協会から紹介された患者さんを、橋本敬三先生が見たという話も聞いた。これは私のクライアントの体験だ。昭和の時代はそんなこともあったのだ。
また、先日も書いたが、「色々な操体を体験したい」という人がいた。
色々な操体、というのは「操体だけでは効果があがらないので、何か別の手技療法を取り入れている」ことだ。
「色々な操体」(操体だけでは成り立たないので何かをプラスしている場合)をショッピングするよりも、
「本当に操体専門」でやっているところで、ホンモノを受けて頂きたいと思う。
再度書くけれど、美術品や芸術などは「最初にホンモノ」を見て体験することだ。
そうしないと審美眼やセンスは磨かれない。
最初からバチモンに接していると、どれがホンモノでどれがニセモノかわからなくなってくる。それは、美術に限らない。
そして「楽」をいくら集めても「快」にはならない。言葉だけで「きもちよさ」と言っても、感覚が伴わない「きもちよさ」はニセモノだ。
これは本当に最近痛感するのだが「操体のやり方」だけ習って、橋本敬三という名前を知らないとか「般若身経」を知らないという人もいる。
そして色々聞いてみると、習ったのは、それこそ「操体の中のいいとこ取り」で、とても薄っぺらいのである。
しかし、世の中とは不思議なもので「ホンモノ」を目の前にしているのに、安易さや価格で「ニセモノ」に走るケースもある。
これは致し方ないが、このブログを読んでいるあなたには、チャンスはある。