これは、操体を学ぶ人、実践者にとっては、結構大きな問題だと思っています。
「家族に『操体』を説明したいけれど、上手く説明できない」というのは、操体あるある、ですし、
うちの親などは「友達に説明したいけど、説明しにくい」と言います。
「操体専門です」と、言うと「整体じゃないんですか」と聞かれる(最近は聞かれすぎて答えるのがイヤになってきました笑)。
そして「操体」と言わずに、狭義での「操体法」(この場合、身体論)をとりだし「操体法専門です」と言うと、さほど「整体」と混同されずに済んだりします。
ちなみに「操体」って言ってもわかりにくいから「整体」でいいじゃん、という人もいますが、それはちょっと違う。
また、操体は「身体論」のみだと思っている人もかなりいます。
などということをよく考えていますが、昨日、本を買いに行きました。
羽田守快先生の「荼枳尼天の秘密」です。
私は赤坂の豊川稲荷別院の、大般若講の会員です。
赤坂の豊川稲荷は、稲荷と言っていますが、実は曹洞宗のお寺で、荼枳尼眞天さんをおまつりしているのです。豊川の荼枳尼天さんは、稲穂を担いでいますが、いわゆる密教系の荼枳尼天さんは、剣を持っています(豊川の荼枳尼天さんは、道元禅師の高弟、寒巌義尹(かんがんぎいん)禅師が、二度目の入宋から帰る時に、現れたのが、豊川の荼枳尼眞天さんです(豊川は、荼枳尼眞天、なんです)。
この本をジュンク堂で取り置きしてもらっていたので、レジに並んでいたら、この本をみつけました(同じシリーズで、地獄編と神道編もあり)。
ちょっとぱらぱらめくってみましたが、ほほう。わかりやすいです。これは小学生むけなのですが、大人が読んでも面白い。
お釈迦さまが人間の悩みや苦しみを解き明かし、苦悩から解放されて幸せに生きるにはどうすればよいか、その実践法を説いたのが仏教です。
そういえば、お釈迦様の時代はまだ経典とかなくて、説法だったんだよね。
で、お釈迦様は、説法する相手によって、例え話を変えたりしてたんだっけ、と思い出しました。
ちなみに、私自身も、操体あるいは操体法を説明する際に、説明相手によって変えています。
そうです。操体・操体法を説明する時には、相手によって変えていい(というか、変えたほうがわかりやすい)のです。
ただひとつ、留意したいのは「違い」を「あきらかにする」ことでしょう。
例えば
整体は「他力」。操体は「自力」
自力というのは「自分はマグロ状態で、センセイにお任せ」なのではなく、自分自身もからだを操り、感覚をききわける、ということです。
整体は「患者と治療者」。操体は「患者」と「操者」と「からだ」。
「患者」と「からだ」をわけているのが特長です。
これは「エゴ(私)」は、損得勘定や、正しい、正しくない、で治療に臨むけれども、「からだ」は、楽か辛いか(やりやすいか、やりにくいか)、快か不快か、で治療に臨みます。それが「からだの要求」です。操体は「からだの要求に従った」「からだの声をきく」治療法だと言えます。
整体等で一番多い事故が、操者が受け手の感覚を確認せずに、強い力で施術を行ったために起こったものです。
操体は「からだの要求」を大切にしますので、このようは事故は起こりません。
逆に、橋本先生は力んだ患者に蹴られて肋骨を折ったという話がありますし、私自身も、何故か手を思い切り踏まれたとか、受け手のあり得ない?アクションで、ケガをしたことはあります。
第五分析が生まれ、操体・操体法の説明も大分「的(まと)」が絞れてきました。