操体法を指導していて、たまに「これはちゃんと伝えないとなあ」と思う事があります。
それは、操体・操体法において、きもちのよさや、感覚をききわけるのは、「被験者(私)」ではなく、「からだ」であるということです。
この話をすると「?」と言う顔をされることがありますが、よく「目が食べたい」という話を聞いた事があるでしょうか。
英語では”My eyes are bigger than my stomach.”(私の目は私の胃袋よりも大きい)という言い方があるそうですが、おなかは一杯なのに、目が食べたい、ということです。
からだの本音(おなか一杯だよ)に対し、脳(目というか欲)は(美味しそうだな、おなか一杯だけど食べちゃおうかな)となることです。
操法で言えば、操体法は、比較対称した場合、やりやすい方を選択します。この話をすると「反対側はやらなくていいんですか」と言われることがあります。
「左右まんべんなくやったほうがいい」「やりにくい方を多くやったほうがいい」「やる回数は多いほうがいい」「操法の数は多い方がいい」
これらは、全て「アタマ」で考えた「損得勘定」です。
からだは「やりやすい方だけでいいよ」と言っているのに、アタマ(意識)は、
- 左右まんべんなくやったほうがいい
- やりにくい方もたくさんやった方がいい
- やる回数は多いほうがいい
- 操法の数は多い方がいい
と、考えるのです。
我々は、ここで「アタマ」ではなく「からだ」(先程の例で言えば、お腹がいっぱいなのに、目が欲張ってまだ食べたい、となっている状態)にアプローチするために、
- 言葉の誘導
を用います。
例えば
「あなたはこれがきもちいいですか?」
「このきもちのよさ、からだにききわけられますか?」
という二つの問いかけがあります。前者は「あなた(アタマ)」に問いかけており、後者は「からだ」にききわけさせているのです。
アタマとは、損得勘定、正しいか、正しくないか、などで考えます。
からだは「快か不快か」(好きかきらいか)を選択します。
操体指導者は、この区別がしっかりできていないといけません。
この違いが分かっていないと「ちょっとしかきもちよくない」とか「これはきもちよくない」というように、きもちのよさ、快を大小で評価したりすることになります。
私はこの手の勘違いをしている人を数多く見てきました。
そう言う人は、結局「快」を「損得勘定」(多い少ない)でみているので、なかなかコアな部分にたどり着けないことが多いように感じます。
また、先日「身心一如」というものもある、という方もいました。
なので、「私とからだを分けるのか」というのです。
この場合ですが、私自身、厳密に言えば「こころ」「からだ」「自分」は、別のモノではあるけれど、密接に繋がっているという感じがあります。
身心一如というのは、当たり前と言えば当たり前ですが、ここでいう「心」は、どちらかと言えば「エゴ」や「アタマ」ではありません。
なので「身心一如」っていうから、ワタシのエゴもからだも同じでいいじゃん、とは思いません。
また、身体と精神は一体であって、分けることはできず、一つのものの両面にすぎないという仏教の考え。 「身心」は、体と心のこと。 「心身(心と体)」ともいい、「しんじん」とも読む。 「一如」は、ただ一つであるさま。
本当は「からだ」「こころ」「アタマ(エゴ)」の3つがあるんだろうな、と考えています。