操体法大辞典

操体の専門家による、操体の最新情報など

会津に思う。

先日、あるところで、ある人が、鹿児島のお土産が入った紙袋を持っていました。

 

それには何かの家紋のようなものがついていました。

 

その人は「これ、何だか知ってる?」と私に言いました。

 

私は「知りません」と答えました(本当に知らなかった)。

 

その人は

「ええええ~っ?島津家の丸に十文字を知らないの」と私に言いました。

 

「・・・・・知らない」

 

ヘンな話ですが、私の前世の一つは、会津の坊さんだったようなんです。それも、会津戦争戊辰戦争)で死んでるようなんですね(信じない人はすっ飛ばしてくださいね)。

 

それを知る前までは、日本史は大好きなのに、明治維新前後のことが全く頭に入らないのと、維新には全く興味がなかったんです。

 

その時に「あ、だから会津若松のお城に行くと何だかザワザワするし、明治維新にはあまり興味がわかないのか」と、思いました。

 

面白いことに「自分は前世で、戊辰戦争で死んでいる坊さんであった」ことが分かってから、国賊側?から維新をみることができるようになった気がします。

 

 

ちなみに、仏教も維新政府には相当痛めつけられており、曹洞宗浄土真宗などがどれだけ迫害されたか(当然ながら教科書などには載っていない)ということは、知っています。

 

ちなみに、橋本敬三先生は会津の出身です。

 

今回、日本操体学会の会誌、「イサキ」に、加藤平八郎さんへのインタビューが載っていました。

 

加藤さんは、橋本敬三先生の「会津高校」(敬三先生時代は中学)の後輩にあたります。

操体法治療室」の今先生の担当編で、今先生とミヨちゃんとスキーに一緒に行くという形で登場する方です。

 

ちなみに、インタビュアーは「小松」と書かれていますが、この方は、もしかすると、以前フォーラムにいて、破門された人ではないかと推察します。操体はやめたと思っていたのですが、やってたんですね。まあ、それはいいとして

 

明治時代の会津は「国賊」とされていたため、旧制中学を国で作って貰えず、寄付をつのって会津の人達が旧制中学を作ったという歴史があります。

なので、独特の風土が育ちました。

 

 

昨年は東京操体フォーラムで、式場隆三郎回顧展の資料に映り込んでいる敬三先生の写真を発見したり、「日本文学史」の本で、新潟の白樺派青年達」というページで敬三先生の名前を見つけたり、数年ぶりに日本近代文学館に行って、持っていなかった「あだむ」の二期のコピーをとったりしました。

 

武者小路実篤と一緒に写っているとか、柳宗悦夫妻と一緒に写っているとか(写真の一枚は、温古堂の橋本千春さんにも確認していただきました)、新潟の文学青年であり医学生であり、卒業後軍隊に入り「自分が穢れてしまったような気がする」という一文をかいていたり、そんな橋本敬三先生の一面を知ることができました。

 

っていうか「日本文学史」に名前が出る人なんですよ。橋本敬三っていう人は。

 

数年前まで、毎年夏の終わりに、フォーラムの仲間と南会津に行きました。

会津会津はめちゃめちゃ遠いですが、また行きたいなと思います。