東京操体フォーラム実行委員ブログから少し
「操体法治療室」の後半、三浦先生のパートに、非常に印象的な一節がある。
「Aさん。あなたは誰をいちばん愛していますか」と私は聞きました。一瞬彼女は考えて、「娘です」と答えてくれました。私はキッパリと「それは嘘でしょう」と言ってしまったのです。
「先生、なぜ嘘だってきめつけた言い方をされるんですか」
「ではAさん、あなたは誰をいちばん許しているのでしょうね。どうでしょう、よきにつけ悪しさにつけ、あなたは、自分自身を「いちばん許しているのではないですか。自分を愛せなくしていったい誰をいちばん愛していると言えるのでしょうね。自分を愛し許せるとき、初めて相手を思いやり、愛し、許せるのではないですか」
「自分が自分を一番愛しているのは、ヘンなことではない」ということに改めて気がついたのだ。
確か亡き本田実奈子(和製マドンナ路線だった頃)が「世界は自分のために回っている」と言っていたことがある。これは多分、自分の事が大好きだ、と言っているのではないかと思った。別に世界制覇を企んでいるとか(笑)、世界中の人を手玉に取るとか、そういうことではなく、自分の世界は自分の信じたルールで回っていてもいいのではないか、と思ったのである。
それに対して「自分が一番好きだというのはワガママだ」と言った人がいた。後で思うと、「自分(相手)が世界で一番好きだといって欲しい」ということだったのかもしれない、と気がついた。また、それは「自己を犠牲にして、私に尽くしなさい」という暗黙のメッセージだったのかもしれない。
いずれにせよ「利己主義」と「自分のことが好き」というのは違う。自分の事が好きでなくてどうして他者を愛せるのだろう。自分が好きだから、自分の心を潤すために好きな勉強をする、色々な文化に触れる、本を読む、素敵な人達と会う。自分が好きだから、自分の手入れはちゃんとする。
また、操体に出会って「なるほど」と思ったのは「八方美人でなくとも良い」ということだ。
昔から「八方美人」の人達を見ていて「大変だなぁ」と思っていた。八方美人は疲れる。誰にでもいい顔をしていると、そのうちどの人にも顔を向けられなくなる。そして、病気になったり、心を病んだりする。あるいはヘンな人達が寄ってくる。誰からも好かれるいい人は、結局『どうでもいい人』になるのだ。
ある時思い切って「八方美人」をやめた人がいる。やめるとどうなったか、もとからの面倒見の良さに加え、ますます人望が厚くなり、信頼されるようになったのだ。これは決して利己主義に走ったのではなく「イエス・ノー」と、自分の意見をはっきりと言えるようになったということだ。
★今までの経験から言って、例えば飲み会などで「行けたら行く」とか「未定だけど都合がついたら行く」という人はまず来ない。八方美人は「ノー」と言うと「嫌われるんじゃないかな」と思うので「行けたら行く」と言う。それで結局は行かない。「行けたら行く」と言われた人は、それなりにあてにしてカウントするが、直前になっても「行けたら行く」で、結局当日は現れない、ということになる。結局は信頼を失うことになる。
「八方美人」に共通しているのは、「人にどう思われるか気になって仕方がない」「腐れ縁に振り回される」ということだ。
人間が好かれるか嫌われるかのエネルギー配分はフィフティ・フィフティらしい。つまり世の中の半分の人には好かれるが、半分には嫌われるということだ。私はこれも「天然自然の法則」だと思っている。自分が一番好きで、自分を大切にするのだったら「八方美人」にはならなくていいのである。
橋本先生の上京時の定宿は、ご子息が勤めておられたホテルオークラだった。橋本先生上京時は、多くの人達が先生を慕って集まってくる。橋本先生はその大勢の人の中で、三浦先生を呼んで、「お前、めんこいから小遣いやる」と、お小遣いをくれたのだそうだ。三浦先生も、何でまたこんな人が大勢いる前で、と思ったそうだ。
これは橋本先生の、愛弟子に対する一流の教えではないかと思う。めんこがられるものは嫉妬される。それは普遍の事実だ。
嫉妬されたくなければ、八方美人になればいいのだ。
これも私が操体から学んだ大切なことだ。