操体法大辞典

操体の専門家による、操体の最新情報など

「共感障害という謎」

昨日、横断歩道を渡ろうと思って信号待ちをしていた時、横断歩道の50メートル先くらいで、救急車がサイレンを鳴らしました。

 

このような場合、救急車を優先し、横断歩道を渡るのは少し待つ、というのがいわゆる常識ですよね。

 

しかし、一人の中年の女性が、信号が変わった瞬間、横断歩道を渡り始めました。

救急車は横断歩道を越えようとし、横断歩道を渡っている女性と、本当に接触しそうになり、それを目前で見ており、冷や汗をかきました。

 

このような場合「なんて非常識な人なんだ!救急車が来たら一旦待つのが常識だろう」と、怒ることもあるでしょう。

 

その人は、横断歩道の真ん中で、救急車を止めて、悠々と歩みをすすめ、横断歩道を渡って行きました。

 

救急車を運転していた人も、かなり焦ったのではないかと思いますし、私以外で横断歩道の前で、この状況に居合わせた人達もかなり焦った(救急車と接触しそうだったので)でしょう。

 

そこで、私は少し考えました。

あの、横断歩道を渡って行った女性、一体どんな状況だったのだろう。

 

・なにかしらの障がいを持っていて、サイレンを鳴らした救急車がやってきたら、横断歩道の信号が青であっても、救急車に道をゆずる、ということを知らない

・横断歩道を渡る、ということにものすごく集中していて、救急車に気がつかなかった

 

これは答えが出せないんですが、その女性は悪気があって救急車の前に立ちはだかったのではないし、自然に自分の歩を自分のペースで進めただけなのです。多分。

 

この話とは関係ないのですが、思い出したのは、丁度読んでいたこの本。 

 

自分が感じている世界を、他者も同じに感じているわけではない、ということがよくわかります。

自閉症に対するアメリカの早期教育も興味深いし、自閉症は愛情を与えてあげれば治る、という誤った認識に関することも。

我々は、かなりみんな個性的なのです。

 

 

操体で言う「がんばるな」について

操体には「バルの戒め」と呼ばれているものがあります。

  • がんばるな
  • いばるな
  • よくばるな

  • しばるな

を加えたりします。

 

今ではあまりありませんが、20年前くらいは「がんばるな」というと「自分はもの凄く頑張ってきた。だから今の自分がある。それを否定されているようで辛い」という方もいらっしゃいましたし、

「親からも学校からも周りからも『頑張れ』と言われて頑張ってきた。それを否定するのか」という意見もありました。

 

20年前くらいから、うつ病の人に「がんばれ」と言ってはいけないとか(これについては詳細は割愛します)、色々な話がありますが、ひろさちやさんの本の一節をご紹介しましょう。

 

じつは、努力に二種類があります。
ー自己肯定の上でなされる努力ー
と、
ー自己否定の上になされる努力ー
です。わたしは、後者のほうを「がんばり」と呼びます、これは本当の意味の努力ではありません。

 

「仏教に学ぶ『がんばらない思想』」

こちらを読むと、ひろさちやさんが「がんばらない」事を仏教的に説いても、やはり色々な反発(多くは自分が頑張ってきたことに対する否定と捉えている)があったようで、参考になります。

 

 

「からだの設計にミスはない」

に「救いと報い」という一節があります。41ページから48ページあたりです。

ここを読むと、若き橋本敬三医師が「がんばらなくていいんだ」と、目覚めた経緯がまとめられています。

 

最近、操体関係のイベントなどに参加したりすると、操体実践者の方々から「がんばります」という発言を聞くことが何度かありました。

 

「バルの戒め」を知らないのかなあ、と思ったりします。

 

この「救いと報い」「がんばらなくていい」というのは、操体の哲学を理解するにあたっては、とても大事なことです。

操体を学ぶのであれば、その辺り、ちゃんと押さえていただければなあ、と思います。

 

また、がんばらなくていい、という言葉を

操体の指導者も、勉強は間に合っていればいいしがんばらなくてもいい」とか

「(操体は、がんばらなくてもいいと言ってるから)だらしなくてもいい」とか、

自分に都合がいい解釈をしている人がいましたが、それは違います。

 

がんばらなくてもいい、というのは「救い」。救いというのは、生まれる前から、救われている、なので、心配することはない、という、絶対的な安心感です。

(私はこれを縦軸だと想像します)

 

一方、橋本敬三先生は「救いを知ると同時に『報い』も知った」と書かれています。

これは、この世(仏教的に言えば娑婆)で生きるということは、良いことも悪い事も、全て因果応報であるということ。

魂は絶対的に救われていても、地上に生きている間は、自分の行ったことには、それなりの結果がついてくる(相対的)ということです。

(私はこれを横軸と想像しています)

 

ということは、がんばらなくてもよいから、といって、操体のプロや(もしくは医者が)間に合っている位の適当な勉強しかしていなければ、施術や治療の結果はどうなるでしょう。

 

 

 

 

 

はじめて操体にトライする方へ。

先日書いたメモをまとめてみた。

これから操体にトライする方への参考になればと思う。

 

操体をこれからやってみよう、と思う場合のケースを考える。

  1. 健康維持増進のために自分でやりたい
  2. 自分が現在抱えている症状疾患を自分で治したい
  3. 家族にやってあげたい
  4. 治療家である

 

1~3は、家庭でセルフケアということになり、4は専門家だ。

 

1.健康維持増進のために自分でやりたい

この場合、殆どの方は、本を読むか動画を見るか、を考えるだろう。
しかし、一番早いのは「プロにやってもらう」ことだ。

 

健康維持増進のためなら、尚更のことだ。

操体の専門家であれば、その人のからだの使い方、動かし方のクセや、持っている症状疾患や傾向などをみて「操体のプログラム」を「処方」してくれるはずだ。

 

一度習ったものを毎日やる。

しばらくしたら、やっていることが外れていないか、チェックしてもらう。

意外と「右と左」「親指と小指」を取り違えていたりすることもある。

以前「教えてもらったことを毎日やっているけれど、どうもおかしい」という方がいて、やっているということを再現してもらったら、まるっきり反対のことをやっていて、これじゃ痛くなるよね、ということもあった。

 

チェックしてもらい、操体のプロに「この人は次のステップを指導してもいいかな」と、次のステップを教えてもらう。段々レベルアップするので、セルフケアのレベルもアップする。

 

 

2. 自分が現在抱えている症状疾患を自分で治したい

これについては、現在抱えている症状疾患の程度がどれくらいなのかにもよる。

 

たまに「操体は自分で治せる」ということで「何でも自分で動けば治せるのか」という方もいらっしゃるが、もし、それが可能であれば(何でも自分で動いて治せるのであれば)、操体法は世界中に広まっているはずだ。

「自分で治せる」というのは。健康の度合いが「自分で治せる」レベルにあるからだ。

 

個人個人が持っている「健康の度合い」が低すぎたりすると、自力自療まで及ばない。まずは、自力自療が可能になるまで、健康の度合いをアップさせる必要がある。

 

例えば骨折したとする。

骨折したら、まずは整復が必要だし、場合によっては手術も必要になる。
これを普通の人が自分でやるのは無理だろうし、放置しておいたら日常生活に支障がおこるような後遺症が残るかもしれない。

 

整復や手術、固定などは、やはりプロ(医師や柔道整復師)に任せることになる。
セルフケアは、その後だ。

 

なお、操体は患部以外のところから患部にアプローチできる。

これは、操体のメリットだ。

 

具体的に言うならば、足首を骨折した場合、骨折した場所を動かしたり触れたりせずとも、そこにアプローチし、回復を促すのだ。

 

いずれにせよこの場合は「自分でできるレベルになるまでは、プロにお任せ」することになる。

 

3. 家族にやってあげたい

この場合、家族と言っているが、大抵は「家族以外の人にもやって、いずれは操体のプロになれるといいな」と、考えていることもあるのではと思う。

家族にやるのだから、プロになるための技を習う必要もないだろうと思うかもしれないが、

 

操体の唯一の難点は

「中途半端がない」ということだ。

楽な方に動かして、瞬間急速脱力、と言う第一分析の「浅いレベル」でやめておくのならば、それでよい。「万病を治せる妙療法」を読んで実践すればよい。

しかし、第二分析の「快」というレベルに踏み込む場合は、家族にやろうが、プロの勉強が必要だ。

 

「楽」でやめておくなら、そこでやめておく。浅いところで我慢する。

「快」にまで踏み込むなら、どっぷり浸かる。

 

上澄みをすくうか、どっぷり浸かるかの二択なのだ。

この途中がない。

 

世の中の多くの人が操体を学ぶ際に迷うのが、

上澄みをすくっている(楽:第一分析)のに

沼の底(快:第二分析以降)の効果を求めているからだ。

 

二者択一の比較対照を選ぶのであれば「快」には踏み込まないことだ。

比較対照しか勉強していないのに「絶対値である感覚分析の快」を求めるので、

×「どちらがきもちいいですか」

×「楽な方に気持ちよく動いてからだを整える」→最悪のパターンだが、この間違いをやっていても気がついていない人は多い。その違いとは「楽(な動き)」と「快(適感覚)」という、運動と感覚の違いだ。

×「きもちよさを探して動いて」(きもちよさは、探しても見つからないし、そもそもこの問いかけは、診断分析(動診)を行ってから治療(操法)を行うという、操体法の初歩の初歩を取り違えている)

 

 

4.治療家である

これは「プロ向け講習」を受けることをお勧めする。

 

たまに畠山のベーシック講習で「渦状波を習いたい」という人がいたりするが、

渦状波や、息診息法、新重心理論は、三浦寛先生の講習でしか指導していない。

ベーシック講習は、操体の基本と、セルフケア・メンテが基本だ。

ただし、受講生によって目的は違うので、それは考慮している。

操体法東京研究会の講習を受ける前に、こちらを受けるという人もかなり多い。

受講生の半数くらいはベーシック講習を受けていると思う。

www.teizan.com

 

フォーラムは、フォーラムという通り。操体について操体識者経験者、実践者がテーマと操体に沿って発表したり、デモンストレーションをしたりするところだ。テクニックというよりも、操体のプロと接し、直接色々話を聞いたりできる場として、または、操体をやっている先輩の経験談や勉強法を直接聞くチャンスなどに活用してほしい。

柔道整復師鍼灸師理学療法士、健康運動指導士、スポーツプログラマーなどがいる。

また数多く存在する、操体法東京研究会の卒業生達のリユニオンの場でもある。

 

なお、東京操体フォーラム実行委員ブログ

にて、2023年5月14日から私が1週間書いているが、私が操体を勉強した時に、よかったのは、最初から本や写真をみてやってみたのではなかったことだ。

 

お陰で想像や勘違いをせずに済んだ。

 

(当時はyoutubeもなかったし)最初は実技ではなく、三浦寛先生の本や、橋本敬三先生の本で「操体とは」とか「橋本敬三哲学」を読んで学んだ。

 

実技については、本を読んで勘違いとかヘンなことをしていたらイヤなのと、ゆくゆくは三浦先生に習おうと思っていたので、実技を急ごうとは思わなかったのだ。

 

というわけで、まずは操体のプロから操体を受けることをお勧めする。

その時色々聞いてくれればいい。

 

操体もやっている人」ではなく「操体を専門にやっている人」にね。

 

宮城及び東北エリアの「だから」には注意せよ。

私の両親は宮城出身だが、私は東京生まれである。

両親とも若い時に上京しているので、標準語で育っている。

 

しかしながら、橋本敬三先生の映像を見ると「う!おじいさんと同じ話し方だ!」と、懐かしくなってしまうのである。


ちなみに、三浦先生がある時、

「兄弟の『だから』というのがイヤだ」と言っていた。

 

これなんだが

 

東京ネイティブの「だから」と、東北エリアの「だから」は違う。

そこからくるのだ。

 

私が何か話した後に、相手から

「だから~」と言われると、否定されたと感じる。

「だから」というのは、アナタが言ったことは、だから間違っているんですよ、的なニュアンスになるのだ。

 

というわけで、私も実行委員の某氏(群馬ネイティブ)が「だから~」と返してくれるのを聞いて「否定されてんのか?」と思ったこともある。

 

言い方もあるのだが

「だ~か~ら~」といういい方は「肯定」には聞こえない。

「だから」と「だ~か~ら~」は違うのだ。

 

または「アナタの言ってることはこういうことですね」と、サマライズされるとか、言い換えされるような気もしないではない。

 

ところが、宮城や東北エリアでは「だから」というのは「同意」を示すらしい。

 

「そうだかね」とかが、「だから」に変化したのか?

 

実行委員のT澤さんに聞いてみると(仙台、秋田、岩手に居住経験あり)、確かに「同意のだから」という用法が、わりと普通なんだそうだ。

 

また「だから」というのはあまりにくだけた言い方っぽい感じもあるのか、

「ですから」という人もいる。

 

です‐から 〘接続〙 (助動詞「です」に助詞「から」が付いて自立語化したもの) 会話文に用いられ、先行の事柄を受け、その当然の結果として後続の事柄が起こることを示す。 順態の確定条件。 「だから」の丁寧ないい方。

 

しかし、こうやってみると、「ですから」は同意ではない。だから、というのは

《接》

前に言った事柄が、後から言う事柄の原因・理由になる意を表す。それであるから。それゆえ。

 

このあたりは地域性もあるので面白いのだが、東北エリアネイティブでない女子の話を聞いて「だ~か~ら~」と、返すのはやめたほうがいい。

「この人、私の言ったことを否定してる~」と思われても仕方ないのである。

 

 

こちらに「だから」の説明あり。

 

 

triplovers.jp

 

よく「新潟女の『切ない』には気をつけろ」と言われる。

これは新潟女子の「切ない」というのは、「恋しくて切ない」とか「キュンキュン」系の「切ない」ではなく

 

「痛い」とか「辛い」という意味らしい。

 

確かに昔、新潟生まれのおばあちゃんが「切ないねぇ~」と言っているのを聞いて、

「えっ。切ないって一体???」と思ったことがある。

 

 

 

 

操体では、なぜ「ここちよさ」ではイマイチなのか。

先日ある方から「操体法において、患者様が感じる心地よさについて知りたい」というコメントをいただきました(フォーラムで)。

 

ちなみに、我々「操体法東京研究会」では「ここちよさ」とは、あまり言いません。

それは何故なのか、説明しましょう。

 

昔むかし、ある操体関係者の先生は「私は『気持ちいい』っていうとアレだから『心地いい』って言っています」とおっしゃっていました。

 

どういうことかというと「きもちいい」という言葉には、性的なニュアンスがあるので、「ここちいい」と言っている、ということです。

 

まあこれはほっときましょう

 

ちなみに、ここでは「操体の臨床における快」という前提で、話を進めます。

 

世の中には「快適感覚」「快」の全てを操体に結びつけようとして「きもちいいことは全て操体だ」という暴論を発した方もいたからです。

 

勿論「快」にも色々あるのですが、ここでは「操体臨床の過程における快」、つまり、様々な動診やアプローチを受けた上で、からだ(本人ではなく、からだです)がききわけ、味わってみたいというからだの要求を満たしている、操体臨床として成り立つ「快」を指します。

 

つまり、クシャミしてきもちよかったとか、かゆい背中を掻いてきもちいいとか、トイレで用を足し終わった際のきもちよさなどとは、違うということです。

 

ここまで行かなくとも、多くの人は「快」というと、自分の経験値から想起できる「快」を思い出しますので、混乱するのです。

私も操体法東京研究会の受講生から「快とは何ぞや」という質問を受けた際に、「あ、この人は、自分が想像しうる全てのことを『快』と認識しようとしているな」と、気がついて修正したことが何度もあります。

 

勿論、刺激や摩擦や出し切ってキモチイイ、ということに加え、エクスタシー(恍惚)レベルの快や、宇宙空間を飛んでいるというレベルの快や、生命が根源的に従う「快」というものもありますが、これは一旦おいておきます。

 

さて、操体法で「快」をききわけ、味わうというのは、第二分析です。

こちらは、第一分析とは、そもそも動診操法の過程が違います。

第一分析(どちらが楽かつらいか、対になった2つの動きを比較対称する。比較対称)

第二分析(1つ1つの動きに、快適感覚の有無を確認する。比較対称しない)

 

世の中の、ほぼ99パーセントの方は、「第一分析」と「第二分析」の区別が曖昧です。

 

第二分析では、動診を行った際に「現在行っているこの動診に、きもちのよさ、快適感覚がききわけられますか?からだにききわけて、教えてください」と、問いかけます。

(言葉の誘導は省略しているので悪しからず)

本人が「ハイ。あります」と答えたら、それで良し、ではありません。

 

快は快でも「質の高い快」を味わってもらうために、

「そのきもちよさ、味わってみたいという要求を満たしていますか?からだにききわけて、教えてください」と、操者は問いかけます。

 

「それほどでもない」「味わなくてもいい」と言うならば、その「きもちよさ」は、スルーします。

つまり、あまり質が高くなく、別に味わってみなくてもいいや、という「快」はスルーするのです。

 

「そのきもちのよさ、味わってみたいという要求を満たしていますか?からだにききわけて、教えてください」と、いう問いかけに

「ハイ。味わってみたいです」という答えが返ってきた、つまり「からだが『これくらいのきもちのよさなら、味わってみたいなぁ」という返事が返ってきたら、続行です。

 

つまり、きもちのよさ、快であっても、からだが味わってみたいという要求を満たしていないようなものは、スルー、からだが「このきもちよさ、味わってみたいです」というゴーサインを出していれば、

 

「それでは、このきもちのよさを充分に味わってください」と、「きもちのよさをききわける過程、つまり「動診・診断」から、「快を味わう(治療・操法)」という過程にうつります。

 

第二分析では、からだが味わってみたい、という要求をみたしている質の高い快を、味わうことが、「操法・治療」となるのです。

 

質の高い快は、「ここちよさ」より、かなり質が高いのはお分かりでしょうか。

なんとなくここちよい、ではなく「からだが味わってみたい、という要求がある」質の高い快を、操体の第二分析では、治療(操法)として用いるのです。

 

一般的には、第一分析をやっているのに、言葉だけ「快」とか「ここちよさ」を使うので、動診を行う上での齟齬が生まれます。

 

快は絶対的なもの(相対的ではない)なのに×「どちらがきもちいいですか」と聞いてしまったりするのです。

 

何度も書いていますが、操体臨床においては「どちらがきもちいいですか」という問いかけは行いません。きもちのよさは、絶対的なものであり、比較対称は難しいからです。

 

どこか怪我をした方に、運動分析を行う場合、そうですね。肩にしましょう。

右肩を上げるのと、下げるのと、どちらが楽ですか?どちらが辛いですか?と聞いた場合「あ、上げるほうがいいです」という答えは即帰ってきます。痛くないほう、辛くない方は、すぐわかるからです。

一方「右肩を上げるのと下げるの、どちらがきもちいいですか」と聞かれた場合ですが、下げると痛いので、こちらは痛いのはわかる。しかし、上げるのは「下げるよりも痛くない」という程度であり、これが「きもちいい」には繋がらないのです。

 

むしろ「痛くない」「なんともない」ことが殆どです。

こういう時に「きもちいいですか」と聞かれても「はぁ?」ということになります。

 

私のところには、この「はぁ?」でお悩みの方が数多くいらっしゃいます。

つまり「きもちよくない」「楽でバランスがとれていてなんともない」のに「どちらがきもちいいですか」と聞かれ、困った方。

あるいは、第一分析と第二分析の区別、つまり「楽(動き)」と「快(感覚)」、運動分析と感覚分析の違いがわかっていない指導者から「どちらがきもちいいですか」とか「どちらがここちいいか」と聞きなさいと、教わり、実際にやってみると「わかりません」「きもちよさ?わかりません」などと言われてしまい、困ってしまう治療家の方々です。

 

 

第二分析では「快(そのきもちのよさを味わってみたいという体の要求感覚を満たしている、質の高い快)」を味わうことが、すなわち「操法・治療」になります。

 

なので「ここちよい」程度のライトなものでは、からだは「味わってみたい」というオーダーを出してこないのです。

 

「うわ、これってめっちゃきもちいい。からだが味わってみたい、って言ってる」という「きもちのよさ」を選択するのです。

 

これが、操体臨床においては「ここちよい」というのは、イマイチであるという理由です。

 

操体操体法におけるきもちのよさ」に着いて疑問がある、あるいは実際に体験して違いを知りたいと言う場合は、こちららお勧めです。

施術+ベーシック講習 | 操体法の講習 | 操体法 TEI-ZAN操体医科学研究所

 

www.teizan.com

 

 

ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:Volume3

今日は久々に休みが取れたので、これまた久しぶりに映画館に行ってきました。

 

やっぱり映画は映画館で観るのが一番ですね。

 

といいつつ、昨日はNHKオンデマンドで「犬神家の一族」見てから「育休刑事」(どちらも主人公は金子大地@頼家様)を見てしまいましたが。。

 

さてさて、今日の映画は

 

本日公開の「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOL3」です。

 

このシリーズは「音楽」が、かなりのキモです。

今回は Since You've Been Gone そうです。Ritchie Blackmore's Rainbow の名曲

グラハム・ボネットが歌っているアレがフィーチャーされています。

 

marvel.disney.co.jp

色々考えてみたのですが、アベンジャーズの中でも、もしかすると私はGOTGがかなり好きかもしれません。

明るくノリが軽いように見えますが、その裏に隠されている登場人物それぞれの事情と試練。そもそも主人公(スターロード)からして、8歳の時地球からさらわれて、宇宙で泥棒稼業をやってたとか、ヒロインのガモーラと妹のネビュラはあの、サノスの養女(姉妹間の戦いや葛藤あり)

そして、サノスとの戦いで、ガモーラは命を失い、彼女を失ったスターロード(ピーター・クイル)は、腑抜けになっている状態。

 

VOL2と今作の間に、クリスマス・スペシャルのドラマがありまして、腑抜けになっているピーターを元気づけようと、マンティスとドラックスは、クリスマス・プレゼントに、ピーターのアイドルであるケビン・ベーコンを誘拐して?プレゼントするという暴挙に出ますが、事情を知ったケビン・ベーコン(本人出演)も最後は一緒になってクリスマスを祝い、実はマンティス(種族は違うけれど、ピーターの実父、エゴが幼虫の頃に拾って育てていた)はピーターの妹だったというオチがついた話がありました。

 

そして今回は、ロケット(宇宙一凶暴なアライグマ)誕生の謎が明かされるのでした。

この辺りはかなりナミダを誘います。

 

そしてガモーラも登場しますが、今回登場しているガモーラは「別人」のガモーラで、ピーターと恋人同士だった時のことは、全く記憶にないという少しツラい設定。

 

ラストでは、ピーターが地球に帰り、マンティスも自分探しの旅?に出て、GOGは、

新たなキャプテンとなったロケット、グルート、アダム(今回から登場のキャラ。最初は敵方だったが助けられてGOTGに参加)、ネビュラ、ドラックズで活躍。

 

地球に戻ったピーターは、90歳になった祖父と再会し、呑気にシリアルとか食べていましたが、最後にはやはり「スターロードは帰ってくる」というのが出てきて安心しました。

 

個人的には、ネビュラ(すごく強い)好きですが、クリス・プラットは「ジュラシック」にも出てますが、個人的には「マグニフィセント・セブン」(デンゼル・ワシントン主演の西部劇)もいいですが、やはり、ピーター・クイルは当たり役でしょう。

 

再度宇宙に戻りGOTGで暴れ回って欲しいものです。