操体法大辞典

操体の専門家による、操体の最新情報など

「教えて君」にならないために

教えて君」というのは、経済評論家の勝間和代さんの「ビジネス頭をつくる7つのフレームワーク力」に書いてあった言葉である。

勝間さんはビジネス書を何冊も書いているが、その勉強法は操体の勉強にも通じるものがある。

論理思考力、水平思考力、視覚化力、数字力、言語力、知的体力、偶然力がこの本に書かれているが、決して数字やデータのみにこだわっているのではなく『知識は身体で覚える』ことや、『三毒(妬む、怒る、愚痴る)追放』などにも言及している。この三毒追放、というのは、操体的に考えても「なるほど」と頷けるのである







それはさておき、こんな問題に付いて書かれていた。

フェルミ推定の問題で『日本に何匹犬がいますか?自分の頭で考えて下さい』という質問に対して(これは結論ではなく、そのプロセスが大事)一番いけないのは、すぐGoogleなどで調べること。自分で考えないで調べてしまうことなのだそうだ。



★「自分の頭で」って書いてあるし。



次によくないのが山勘で根拠なしに答えたヒト。この、「アタマで考えて答えなさい」と言われたにも関わらず、ぐぐったり人に聞いたりしてして調べるヒト、これを「教えて君」というらしい。



この「教えて君」、或る程度社会でキャリアを積んだ際に、そうでないヒトと比べて「伸び」に差がでるとか。



教えて君」で考えるコトがある。

「どちて?」「どちて?」と一休さんや新右衛門さん(あ?ちょっと古いですか?)を困らせる「どちて坊や」のごとく、聞きまくるのは如何に?たまにどちて坊や級の凄いヒトもいる。(アニメ『一休さん』に登場。夏休みは午前中、毎日『一休さん』の再放送を見ていた)



注:どちて坊や

なにかにつけて「どちて?」と聞く。このため多くの者が回答に窮する。やんちゃ姫さえ寄せ付けず、ある意味、この物語における最強の人物。実は戦災孤児で、南北朝争乱によって両親を失っている。



自分も何かを知りたかったら、教えてくれる相手に何かしら与えるべきなのだ。これは、何でもいい。一番喜ばれるのは「情報」

だろうか?



授業料を払っているからと言って、聞きたいことは根こそぎ?全部聞いてやる!というのはどうか。

もしも、聞く方が或る程度のレベルを保っていて、「聞いたことが全部理解できる」のだったらそれでもいいと思う。教える方も教え甲斐があるだろう。「よし、自分の全てを教えるから覚悟しなさい」、という具合にだ。そういう場合はお互いに気持ちいいだろう。私もそういう生徒でありたいし、いつかはそのように教えたい。あるいは仲間とそういう楽しさを共有したい。



しかし、聞く方の質問に回答者が答えても、それが「聞く方が半分位しか理解できないレベル」の難易度だったらどうなるか。これは非常に難しいところではないか。



最近思うのはこのあたりなのだが、自分の講習質問を受けることがあるし、師匠の講習に参加されている受講生の方の質問を側で聞いていることもある。

皆さん、勉強熱心で、色々な質問をされてくるのだが、果たして今師匠や私が答えても、『今現在』その回答の半分も理解していただけるのろうか、もう少し機が熟してからなのでは?という難易度の高い質問をされてくるのである。

身体運動の法則や、連動、あるいは介助法を学ぶ前に「皮膚へのアプローチが知りたい」とか、ステップを飛び越しているような感じなのだ。



敢えて言うならば、大根を切りたいという場合、包丁の持ち方を習う前に、かつらむきとかベジタブル・カービングのやり方を先に教えろ、と言っているのと同じだ。

かつらむきをマスターしたいのなら、包丁の選び方(菜切りとか出刃とか)から、持ち方、それに加えて練習も必要であり、練習を積んではじめてできるようになるわけであって、「かつらむき」の

技法を知ったからといって、即出来るわけではない。



そういう時には、本当に知りたいこと、質問したいことが自分の中でクリアになるまでじっと待つ、というのも一つの手ではないか。